ははうえ、という弾んだ声がまるで知らない異世界の言葉のように聞こえていた。ジュダルには母はいないし、父もいない。自分でそれを口にすると、自分の声とは思えないほど不可思議な響きになり、上手く発音できない。母親の膝にすがる汚い子どもたちを見ても胸を刺すような懐かしさも羨望も憎しみも何も感じない。おれはああいう奴らとはまったく違う存在なんだ、とジュダルは思ってきたし、そう教えられてもきた。
白瑛が幼く、白龍などまだろくに歩けもしなかった頃、ジュダルは玉艶の腕によく抱かれていたのを覚えている。だが彼女は小さなマギをいつくしみ親しげには振舞っても、「私があなたの母親代わりよ」などと言って微笑んだりはしなかった。玉艶が幼かったジュダルに与えたのは愛ではなくその小さな体には収まりきらないほどの巨大な自尊心だ。ああ、ジュダル、創世の魔法使いよ。あなたは黒きルフの導きのままにまったく新しい世界を作り出し、いずれ世界のすべての民を導くお方。皇帝の目の届かないところでは玉艶は衣服をすべて脱ぎ捨てて、ジュダルに何度も平伏し、畏まってそう言った。肉親を知らないジュダルはそのせいでもっとも近しかった女を母や姉と慕う機会すら失われた。
昼の光の下では、玉艶は常に白龍の小さな手を取り、少女らしく頬を紅潮させた白瑛にやさしく話しかけていた。ジュダルは不思議なものを見たような気になった。おれはあいつらとはまったく違うプロセスで生れてきたのだ、と思った。同じ人間だなんてとても思えない。しかし組織の男たちや玉艶は真綿でくるむように厳重にジュダルを守り、管理して育てたから、疎外感を覚え孤独を感じる芽は最初から摘み取られていた。彼らはジュダルに好きにさせ、いっさいの反対をしなかった。玉艶はジュダルが彼女の付き人に残酷な命令をしてもにこにこと笑って許した。何でもあなたの好きにしていいのよ。だってあなた以外の誰もが、生きていても死んでいても構わない、取るに足らない人間たちですもの。生きながら獣に食われ、息絶えるまで泣き叫んで許しを乞うていた昔馴染みの女官を眺めながらジュダルにそう言った。ジュダルはつい、「お前もそうなのか」と聞いた。ジュダル以外はいつ死んでもいい程度の人間だというのなら、玉艶自身はどうなのだ。幼児らしく残酷な切り返しだったが、玉艶は頬を染めて「そうよ」と嬉しそうに答えた。よく理解してくれたわね、ジュダル。
だが結局、ジュダルは玉艶に死をねだることはなかった。人が死ぬときの絶叫や恐怖の表情や「死」そのものに対してさほどの興味をいだかなかったからだ。しかし自分が持つ力への欲求は、一度満たされたらその先はない、などということはなかった。ジュダルは魔法を覚えたての頃、田舎の集落をめちゃくちゃに破壊したことがあった。壊す、という行為は楽しかった。何かを作ることがうまく想像できないジュダルは、出来上がったものを熱心に壊すことを始めた。玉艶をはじめとする組織の人間たちはそれを歓迎した。思うがままに力を解放していいのよ。あなたはマギなのだから。
しかしただの人間たちはちょっと体が欠けただけですぐに死んでしまう。殺すこと自体に楽しみを覚えていたわけではないジュダルは、壊すときに「手ごたえ」を求め始めた。壊すのが難しいほど面白い。魔道士や強い人間と戦って、そのすえに壊すのが面白くなった。際立った膂力を持った兵士や将軍たちは原型を留めないほど焦がされたり四肢をばらばらにされたりして無残に殺された。
玉艶はそれを咎めるどころかうれしそうな顔で賛成した。面白いと思ったことを何でもしていいのよ。あなたはマギなのだから、何を壊してもいいの。その微笑にジュダルはなんだか意地悪な気持ちになって、「この禁城を壊してもいいのか」と聞いた。玉艶はためらいもせず頷いた。いいのよ。ジュダルは少しいらついて、「お前がいつも一緒にいる男やガキどもを殺してもいいのか」と聞いた。玉艶は笑顔を浮かべながら「もちろんよ」と答えてジュダルの頬をいとおしげに撫でた。
そのとき、急に底なしの暗黒に突き落とされたような気持ちになった。そんなにも簡単に壊されてしまう「世界」とはいったい何なのだろう。すべてを壊しても許される「マギ」とはいったい何者なのだろう。世界を壊すことが許されるのがマギだけだと言うのなら、もしかして、世界から切り離され、見捨てられているのは自分だけなのではないのか?
玉艶はジュダルの幼い顔に浮かんだわずかな疑念に勘付いたのか、まったく新しい概念をジュダルに教え始めた。マギの役割についてだ。マギは王を選び、迷宮へ導く。王とは魔力が多く、強い者のことを指す。強くなければ戦うことはできないし、身を守ることだってできない。マギが選ぶ王は、できるだけ多い方がいい。一人の人間が金属器を全部持てるわけではないのだから、見込みのある者はすべて迷宮に導くべきだ。王に選ぶべき人材は組織がすでに見繕っており、彼らはジュダルがやってくる日を心待ちにしている。ジュダルはその考えに完全に同調したわけではなかったが、王を導くという「仕事」には強い興味を示した。自分がただものを壊すだけのつまらない存在でないことを確かめたかった。玉艶は矢継ぎ早に質問を繰り返すジュダルに笑いかけながら、迷宮へと導いてほしい「王」の名をやさしく告げた。
ジュダルの前で服を脱ぎ捨てて裸になるのは恭順の意を示しているのかと思っていたが、最近やっと分かってきた。そういう趣味なのだ。近づきたかったり支配したかったりする人間の前ではとりあえず裸になる。玉艶の素肌を見た者の頭には、目の前の光景と彼女の年齢が並んで浮かぶはずだ。いや、そんなわけがない。まさか。嘘だ。信じられない。自分への反感を持つ者の出鼻をくじき、冷静にものが考えられない状態で話を持ちかけ、万事思い通りにさせる。そういうのが好きなのだ。趣味でなく手管だ、と玉艶は言うだろうが、趣味としか思えない。裸になったからって、ジュダルには何の効果もないからだ。
雪の降る中、玉艶は贅沢にいくつも火鉢を置かせ、西方渡りの長椅子にジュダルと並んで座り、裸で優雅に足を組んでいる。
「白龍はもう帰ってこないと思っていたわ」
興味なさそうにそう言い、女官に命じてつやつやした髪をほどかせ始めた。
「もうひとりのマギのいるところへちょうど居合わせたのでしょう? 何度も襲撃を受けたのに生きて帰ってこられるなんてね。目的どおり、金属器まで得て」
ちょうど居合わせたのではなく白龍は彼らに自らついていったしシンドリアからそういう書簡が煌帝国に届いてもいるのだが、玉艶にとってはどちらでもいいことらしい。ジュダルはあえて口を挟まずに頷いた。
「けれど片足を失ったのですってね。それでは他の金属器使いとは渡り合えないわ。せっかく金属器を持ったというのに。あなたも落胆しているでしょう。昔から不思議と白龍に目をかけていたものね」
「足じゃなくて腕だけどな」
玉艶は「あらそう」と素っ気なく言い、少女のようにつるりとしたひざに手のひらを乗せる。しかし「少女のよう」と言うにはすべてが整いすぎていて不自然だった。少年や少女特有のある種の頼りなさがまったく感じられない体だ。
「それで、お願いっていうのは何かしら。あなたがわざわざもったいつけて言うのだもの。よほどのことでしょう?」
ひざに乗せた手がジュダルの金の腕輪に移動し、意味ありげに撫でてきた。背後にいた女官は足音もなく消えうせ、火鉢の炭が弾ける音だけが聞こえていた。
「白龍なら殺してもいいわよ。昔から言っているでしょう? 何でもあなたの好きになさいって」
「『白龍なら』?」
「もちろん白瑛でもいいわ。もしできるのなら紅炎だって構わないし、誰だっていいのよ」
「そういうんじゃねーよ。殺したらもったいないだろ、せっかく強くなったんだからよ」
「じゃあ何かしら」
ジュダルは唇を湿し、考えを巡らせる。玉艶の中での白龍の位置が、「別に生きていても死んでいても構わない」から「邪魔だから殺したい」に移行されては困るので言葉を選ばなければならない。
「ねえ、ジュダル。あなたは最近、何というか……言葉を発する前に、とても色々なことを考えるようになったわね」
「はあ? 何言ってんだよ。おんなじだよ」
思考を中断され、ジュダルは不機嫌にそう返した。
「いいえ、違うわ。あなたはとても変わった。いつでも黙り込んで、自分の中に閉じこもってしまっているの。私は今のあなたのような子を見たことがあるのよ」
甘くやさしい声でそう言いながら、まるで恋人にするようにジュダルにしなだれかかってくる。玉艶が何をしようとしているのかジュダルには何となく分かる。
「白龍よ。あの子はね、私に裏切られたと知った途端、律儀にそれを誰にも言わずに黙り込んで自分の心の中だけに恨みの種をまいて育てたの。馬鹿ね。誰かに言って、味方を作ればあんなに苦しまないで済んだのに」
哀れむように玉艶は眉をひそめる。手がジュダルの耳に触れ、はっきりと意志を持って覆いかぶさってくる。
「あなたも白龍のように黙り込んでしまうかしら。それとも秘密を共有できる仲間を作ろうとする? その『仲間』は、いったいだあれ?」
「何言ってんだよ。わけわかんねーよ」
ふふ、という笑い混じりの吐息が頬にかかる。
「嘘をつくなんて、いつの間にかあなたは大人になっていたのね。こんなに大きくなって。あなたは『マギ』だから、そんなこと考えてはいけないと思ってきちんと言ったことはなかったけれど、私はあなたのことをずっと本当の息子のように思っていたのよ」
ジュダルは慈愛のこもった笑顔を浮かべる玉艶を冷めた目で見上げた。それは嘘だ。玉艶は白瑛や白龍と一緒にいたときのような笑顔を、ジュダルには一度として向けたことがない。それが悲しいだとか惜しいだとか思ったことはまったくないからどうでもいいが、こんなに子供だましの嘘をつかれるとさすがに興ざめだった。玉艶がジュダルの髪をかき上げて生え際に口付け始めると、ジュダルはふっと笑った。
「どうしたの? 初めてでも大丈夫よ、やさしくするし何をしても構わないのよ。殺したって。他ならぬあなたですもの。何でもしてあげるわ」
「いらねーよ別に。重いからどけよ」
幼い頃から何度も玉艶が男と交わるところを見てきた。彼女は勝ち誇ったような笑みなど浮かべない。自分こそが被害者なのだという顔をして許しを乞い、男を有頂天にさせる。玉艶がその美しい目から涙を流せばその分だけ男たちは理性を奪われ、すべてを投げ出して彼女の前にひざまずくはめになった。どんな男も思いのままだった。強きも弱きも、人格者もそうでない者も。
それを思い出したとき、ジュダルはこの女を形作るものが分かった気がした。玉艶の中身は空っぽなのだ。彼女は皇帝の妻だったり皇子たちの母だったりアル・サーメンの幹部だったり単に頭がよく美しい女だったりするが、それらは表層を固める外殻でしかない。殻の中は空だ。空っぽだから、他人をどうにでもできるのだ。ジュダルは途端に可笑しくなってくる。なんだ、おれと同じじゃないか。それなら遠慮なんてする必要はない。
「それより頼みがあるって言ったの、忘れてねーよな」
「もちろん、覚えているわよ。何かしら」
「あの豚、お前に殺されたんだろ」
「どうかしら」
「次の皇帝は誰になるのかも決まってんだろ」
「それは陛下のご意志ですよ」
「とぼけんなよ」
舌打ちをし、ジュダルの膝の上からどかない玉艶をにらみつける。組織の人間たちは、そういう大事なことを決してジュダルに相談しない。
「要するに、あなたは誰かを次の皇帝にしたいのね?」
「そうだ。なあ玉艶、俺は何やっても許されるんだろ。なら次の皇帝は俺が決めてもいいんだよな?」
「もちろんよ」
ジュダルはにやりと笑う。それも嘘だ。
「変な小細工はすんな。ちゃんと紅炎を皇帝にしろよ。あいつは強いし戦争好きだし、俺はあいつと二人で世界征服するって決めたんだ」
「ええ、いいわよ。あなたがそんなに言うのならね」
玉艶は母親のような笑みを浮かべてそう言った。しかしその笑顔は擬態なのだ。この場ではジュダルの言うことを聞いたふりをしても、いずれうまいことやってうやむやにしてしまうだろう。ジュダルは玉艶の頭の中で巡らされている思考を自分のもののように読み取ることが出来る。組織が紅炎を選ぶのならいいが、ジュダル個人が紅炎を選ぶのは困るはずだ。というより紅炎に限らず誰であってもそれは同じで、ジュダルが特定の個人を選んでしまっては困る。ジュダルが自分の王を選んだとたん、ジュダルにとって組織は不要になるからだ。だから組織はきっと正当な後継者である紅炎ではなく、他の人物を皇帝に据えようとするだろう。ジュダルが「組む」ことができない人物を。
「でも紅炎を玉座につけてしてしまったら、遠征軍の指揮は誰がとることになるのかしら。誰にでもできることではないのだもの。後任の人選は難航しそうね」
「それなら白龍がいいと思うぜ」
「白龍? あの白龍に占領国の統治と全軍の指揮を任せるというの?」
さしもの玉艶も驚いた顔をしている。それはそうだろう。シンドリアに行く前はただの泣き虫のガキで、紅炎の前に出ただけで消し炭にされそうな存在の軽さだった。金属器を得た今だって紅炎の足元にも及ばない。
「言っただろ。あいつは強くなった。天山では涼しい顔で何百人もぶっ殺して、でけー集落を三日で降伏させたんだってよ。女も赤ん坊も。許してくれ、女子供だけは助けてくれって言われても容赦なくな」
「白瑛が攻めあぐねて講和に何ヶ月もかけていた山地ね。そう、そんなに強くなったの」
玉艶は満足そうにうなづき、ようやくジュダルの上からどいてくれた。
「ふふ、ジュダル。あなたの本心はそっちにあるのでしょう。ずいぶん迂遠なやり方をして」
「本心?」
「私を白龍に会わせたいのね?」
「……ああ」
「いいわ、会いましょう。二人きりで?」
「どっちでもいい」
「分かったわ。あなたの言うとおりにします。けれど新たな皇帝の件があなたの真意でないのなら、遺詔は陛下のお心のままにしておくわね」
よほど紅炎を皇帝にしたくないらしい。明日、玉艶が帝位につくことを知ったら紅覇あたりが怒り狂うだろう。ジュダルは肩をすくめ、玉艶から目をそらした。
「ねえ、ジュダル。あなたのことを本当に息子のように思っているのよ。私は息子たちを亡くしてしまったから」
「白瑛と白龍がまだいるだろ」
「いないわ。亡くしてしまったの。練玉艶の娘や息子である白瑛と白龍は、あのとき私がこの手で殺したのよ。だからあの子たちにはもう両親なんてものはいない」
玉艶はすっと立ち上がり、服喪中とは思えないほど豪奢な裳着に袖を通した。普段の玉艶はこんな服は着ない。ただの女ではなく、よき妻であり母であるという風を装っている。中身は空っぽなのに。
「あなただけは私の息子でいてちょうだいね。いつでも私の味方で、触れるところにいてちょうだい。ジュダル、私は四人の子どもたちより、あなた一人を取ったのよ」
ジュダルはわけが分からない、というふりをして首をかしげる。玉艶は安心したように頷き、閨房へと消えた。肉親を知らないジュダルは、残された香りに自分の過去の幻影を見る。新たなマギのおかげで自分が他の人間たちと同じく男と女から生れたことを知ったとき、途轍もなく不安になり、同時に安心した。おれはあいつらとまったく違う存在なんかじゃなかった。もしかしたら自分は、あの一番近しい女をははうえ、と呼びたかったのかもしれなかった。
だから白龍が自分の母親を死ぬほど憎む理由を今なら理解できる気がするのだ。愛されたかった。本心から愛されたかった。しかしそんなものを玉艶に求める方が間違っている。優しく美しい母という殻を割ってしまった白龍はその間違いに今でも気付いていない。卵の中から出てきたものは鬼でも蛇でもなく、ただの空洞なのだ。