蒸し暑い夜のことだ。
 雨期に入ってからというもの陣中では蚊が媒介する疫病が流行っていて、紅炎の寝所には薄い天幕が張りめぐらされていた。そのせいで余計に暑かったのだと思う。このあたりはバルバッド中心部よりはだいぶ北にあるというのに煌の民には耐え難いほど暑く、風もなく、空気は湿ってすえた匂いがして、あまり居心地のよい場所ではなかった。どんな劣悪な環境でも気持ちよく熟睡できる紅炎ですら幾度となく目が覚めてしまうくらいだから、よほどだろう。
 何度目かに覚醒したときもまだ夜中で、黄金色の月が高く上がっていた。どういう理屈なのだかは知らないが、ここは月がやたらに大きく美しく見える。紅炎はふたたび眠ろうとしたがうまく眠れず、思い切って起き上がった。汗で湿った夜着をつまんで肌に風を当てる。この調子では兵たちも眠れていないだろう。長く滞陣するのは危険かもしれない。ぼんやりとそんなことを考えているうちに喉が乾いていることに思い当たった。自分では気付かなかったがよほど疲れてぼやっとしていたのだろう。手を伸ばして水差しを取ろうとしたとき、紅炎はようやく異常を察知したのだ。思わずそばに置いてあった短剣を手に取る。寝台の隅に、誰かいる。
「誰だ?」
 寝込みを襲われるくらいのことは日常茶飯事である紅炎だが、それにしては殺気も何も感じない。よくよく目を凝らしてみると、その人物は寝台から落ちそうなほど端っこで膝を抱えて座り込んでいるようだった。そして白い寝具の上に力なく横たわる輪切りの大蛇のような髪が見えたとき、紅炎は軽くため息をついて短剣を置いた。
「ジュダルだな?」
 人影は顔を上げ、小さくうなづいた。
「いったいどうしたんだ。声くらいかけたらいいだろう」
 ジュダルは答えない。その代わりに影が動き、猫のように音も立てずに這い寄ってくる。
 そういえばジュダルは昨日戻ってきたばかりだ。ちょっとシンドリアへ宣戦布告をしに行っていて遅くなった、と悪びれずに言っていた。久しぶりに見たジュダルの顔はどことなくいつもと違う気もしたが、紅炎はいつも通り「何かあったのか」などとは聞かなかった。しかし「何か」はあり、それがこの事態を引き起こしたのは間違いない。ジュダルはいつもとは決定的に違っていた。手探りで紅炎の膝に触れ、そこを手がかりに腿に触れ、腕に触れ、肩に触れ、首に手を回してきた。よくは見えないが顔がすぐ近くにあり、息づかいを肌で感じた。
「ジュダル、どうした」
 背中に手を回して肩胛骨のあたりを軽く叩く。じっとりと汗にまみれた素肌に触れる。そのとき初めて、ジュダルが裸であることに気が付いた。暑いから、ではないだろう。張りつめた空気がジュダルの周りを取り巻いている。ジュダルの体は汗で濡れているのにひどく冷たく、ときどき細かく震えている。
「そんな格好でいるから寒いんだろう。ほら、これにくるまっていろ」
 片手で掛け物をたぐり寄せ、がんとして首から腕をほどかないジュダルの肩にかけてやった。なぜ裸なんかで紅炎の寝台に忍び込んできたのか、子どもじゃあるまいしその理由に思い当たらないわけがない。紅炎は薄い布の上からそっと背中を撫でてやり、さりげない拒否を伝えた。だがうまく伝わらなかったらしい。ジュダルはますます腕の力を強めて乱暴に口づけてきた。全力でのしかかられているから後ろに押し倒されそうになり、思わず後ろに手をつく。反応せずにそのままでいると、ジュダルはたまらずに顔を離して大きく息をついた。
「大丈夫か」
 額を紅炎の肩に押しつけたまま荒く呼吸をしているジュダルの背中をもう一度撫でると、ジュダルはぐったりと体を預けてきた。ほのかに汗の匂いがする。胸がくっついているから、心臓がどきどきと速く動いている様子がよく分かる
「お前の体は冷たくて気持ちがいいな。しばらくそのままでいてくれ。今夜は特に蒸し暑くて、よく眠れなくてな」
「紅炎」
 ジュダルは初めて口を開き、かすれた小さな声で紅炎を呼んだ。
「どうした? 氷嚢代わりにされるのは嫌か」
「分かってんだろ。はぐらかすなよ」
 その頭をわしわしと撫で、紅炎は笑い混じりのため息をついた。
「シンドリアで何があった」
「もう言っただろ。戦争しようぜって言ってきた」
「そうだ。俺とお前はその点で意見が違ったことはない。安心しろ、これからもそうだ。心配することは何もない。だから、こんなことしなくてもいい。お前も分かっているだろう」
 ジュダルはふん、と面白くもなさそうに笑い、紅炎の手首をつかんできた。
 いつの間にか手が大きくなった。大きいだけではなく、男の手になった。紅炎はこの男をほんの小さなころから知っている。輿から紅炎を見下ろし、まだろれつの回りきっていない口調で「お前、すっっげー強そうだな。そのうち俺が迷宮に連れてってやるよ!」と得意満面に言い放ち、作りもののように小さな手を差し出してきたのが最初だった。あれから十年以上が経ったのだから、大きくなって当然だ。
「はあ、分かったよ。離れてやるよ。物分かりが良すぎるんだよお前は。だいたい俺がここまでしてやってんのにふつーにしてられんのお前だけだぜ。他の奴らはやらせてやるって言えばだいたい言うこと聞くのによ」
「最後のは嘘だな。そういう嘘はすぐ分かる」
「……何で分かんだよやな奴だな」
 ふてくされたような声が聞こえ、ジュダルは体を離して唇を尖らせた。紅炎は肩に手を置いてその唇にそっと自分の唇を押し付け、歯を立てないように軽く吸い付いてから離した。
「ジュダル」
「な、何だよ」
 紅炎は乱れた夜着を直し、天幕をそっとよけて窓に目を向けた。月がよく見える位置だ。風が入ってきて汗ばんだ肌がすうっとする。
「すまないな。お前を抱きたくないんだ。お前の体は抱き心地がよくて気持ちがいいし、そうなるのも別に悪くはないが、抱いてしまったら後悔する」
「何でだよ。大げさだな」
「つまらないだろう、そんな関係は……」
 軽く目を閉じ、もう忘れかけている帝都の乾いた空気の匂いと自分の閨の薄暗さを思い出す。黄金と絹と女の生ぬるい肉でできた牢獄だ。あそこにいると大帝国の皇帝の嫡子なんてものは人間ではなく、ただの種牛と同じだということをいやというほど思い知らされる。
「俺は一度でも抱いた女の顔はすべて同じに見える。どうせ情を通わせることはできないし、下手をしたら二度と会うこともないんだからな。お前を抱いたらお前の顔も『同じ』になってしまうだろう。お前を抱きたくない。お前は特別なんだ」
 紅炎は特に力も込めずにそう言った。
「だからこんなことはしなくていい。ただ戦場で俺のそばにあってくれ。お前がいれば負ける気はしないし、俺は世界をすべて平らげるまでは決してお前を飽きさせない。お前はそれを望んでいるんだろう?」
 顔にかかった髪を払ってやり、紅炎はにやりと笑った。あの閨房から逃げるために戦場にいるわけではないけれど、戦場にいさえすれば自分は人間でいられる。ジュダルもきっと似たようなものだろう。戦場にいることでしか自分の存在をうまく確かめられないのだ。
「あ、あのさあ、紅炎」
「何だ」
 ジュダルは戸惑ったように首をすくめていた。
「お前ってすげー変な奴だよな」
「ああ、そうかもしれないな」
「お前って、いい奴だな」
「そうか?」
 首をかしげ、紅炎は何となく自分のあごひげに触ってみる。ジュダルに限らず、誰かに「いい奴だ」と言われたのは初めてな気がする。ジュダルは紅炎のその反応が面白かったらしく、必死に笑いをこらえていた。
「ははっ、お前っておもしれー奴。見せてやりたいぜ、その顔」
「ふむ、俺はどんな顔をしているんだ」
 そう聞いたのはただ何となくだったのに、ジュダルは答えずにははっと笑った。大人っぽい顔だな、と思う。すでに少年ではなくなろうとしているこの男が今までいったい何を得て、何を失ってきたのか、紅炎はそのすべてを知っているわけではない。ジュダルの方だって紅炎の事情など知らないだろう。二人ともお互いのごく表層の部分だけ利用できればよかったのだ。それ以上のものなど、わざわざ言葉にする必要はなかった。
「お前も眠れないなら少し付き合え。もうそろそろいいだろう」
「いいって、何をだよ?」
「酒だ。ほら、いい月が出ているのが見えないか」
「月い?」
 ジュダルは大げさにそう言い、薄い掛け物を剥ぎ取って窓から身を乗り出した。
「あんま変わんねーけど……。だいたい月と酒って何の関係があんだよ」
「関係? いや、関係はない」
 首をかしげ、紅炎は素裸のジュダルの隣に立った。月は黄金色に輝き、燃えるように輝いている。
「バルバッドは気候も食い物もあまり肌に合わないが、月は大きくて鮮やかで美しく、ここの酒はなかなか美味い。それに今日はお前がそばにいてくれる。弟たちも最近はあまり付き合ってくれなくなったてな、酒を飲んでも昔のように馬鹿を言い合って笑うこともなくなった。だから付き合え、ジュダル。もう大人なんだからいいだろう」
「いいけど」
 何度も目を瞬かせ、ジュダルはしげしげと紅炎の顔を見つめてきた。
「お前さあ、こんなひげなんか生やしてっから話かけづれーんだよ。お前がひげ生やし始めたとき紅覇がすげーさみしそーな顔で『炎兄が遠くなった』って言ってたぜ」
「……そうか。ひげのせいで怖いのか、俺は」
 そういえば同じ立場で笑いあえるはずの弟たちから「炎兄」と呼ばれることもなくなって久しい。
「ま、まあそれだけじゃねーけど。でもいいんじゃねーの、話しかけづらくても。お前には俺がいるだろ」
 へへ、とジュダルは笑い、月に背を向けて紅炎の肩に頭をもたせかけてくる。ジュダルの体温は何となくあたたかく、同時に冷たく、無感覚に陥るほど心地よかった。
「そういえばお前だけだったな。このひげが似合わないと俺を笑ったのは」
「仕方ねーだろ、ほんとに似合ってなかったんだよ」
 二十歳を越すまで女顔だった紅炎は、ひげに対するひそかな憧れを持っていた。伸ばそうと思ったのはいつだか忘れてしまったが、久しぶりに帝都に帰ってきたときジュダルはあごひげをつけている紅炎を見てしばらく絶句していた。そしてその数秒後には活火山の噴火を思わせる大爆笑をしてくれた。笑われて悲しくなった紅炎がその場にしゃがみ込んで昆虫に話しかけ始めても気にせず笑っていたと思う。そしてこう言ったのだ。「まーいいんじゃねーの、ひげなんかあってもなくても俺はお前のこと好きだぜ。だってつえーし」。そのときジュダルは実際に子どもだったのだが、限界以上に膨れ上がった万能感と傲慢さが本当の年齢よりもジュダルをさらに幼く見せていた。だが紅炎はそれが不思議と不快ではなかった。きっと幼いころの自分もそう見えていただろうから。
「でももういいだろそんなん。忘れろよ」
「ああ、そうだな。俺にはお前がいる。それに、お前にも俺がいる」
「お前はつえーからな。変な奴だし、いい奴だし」
「親子でも兄弟でも臣下でも男と女でもないのに、俺たちはうまくやっている。そうだな?」
「そうだよ」
 そして敵でも味方でもない。紅炎とジュダルは同時にははっと笑い、肩を叩き合った。こんなに年が違うのに、こんなに立場も違うのに、なぜか戦友のようだった。
 紅炎は寝台のそばに置いていた酒を器に注ぎ、にやにやしながらジュダルに差し出す。ジュダルは興味深そうにまず匂いをかぎ、盃を傾けて唇につけ、それを舌で舐め取ってあっけなく「何だよこれまじい」と吐き捨てた。
「やはりまだ早いか」
「早いとか遅いとかじゃねーよこの味は! まずいんだよ! どうなってんだよお前らの舌は」
 お前ら、という言葉は聞かなかったことにし、紅炎は笑って盃を受け取って中身をすべて口の中に含む。そしてその様子を見上げているジュダルのあごをつかみ、唇を指でこじ開け、口付け、生ぬるくなった酒を口移しで流し込んだ。当然ジュダルは激しくむせて、命からがらといった感じで寝台に転がり込んだ。口の周りを酒だらけにして目を白黒させている。
「なっ、何すんだよ、まずいって言ってんだろ! こんなもん飲ませんなよ!」
「お前が悪い。忘れているのか?」
 空になった盃を置き、今度は自分の酒を飲み干す。紅炎は窓のそばにある椅子に腰掛けて、寝台の上に座り込んでいるジュダルを上から下まで眺めて笑った。
「裸なんかでいるからだ」
「何だよそれ。やりたくないとか言ってたくせに」
 ジュダルは笑って寝台からひんやりとて気持ちのいい足を伸ばして、意味ありげに紅炎の膝に触れてきて、しかしすぐに離した。そして相変わらず裸のまま紅炎が来るのを待っている。目は遊び相手を見つけた子猫のようにぎらぎら光っていた。紅炎はにやりと笑って床に落ちていた掛け物を放り投げてやり、酒の入った盃を持ったまま寝台に腰掛けた。寝台の上は暗く、湿度の高い闇が広がり、すべてが奇妙に符合する二人を隠すように優しく包んでいた。

2012.12.21
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