「兄王様」
老いた舎人が布幕を割って紅明が入ってきたことを知らせ、ほどなくして紅明本人が現れた。紅炎は地図に囲まれて考えを巡らせていたからしばらく返事ができなかった。
「幕中にあってまでぼんやりなさっておられるのですか。部将たちが呆れますよ」
「考えごとをしていただけだ」
紅炎は頭を振ってこめかみを押さえ、ふたたび地図に視線を落とす。紅炎と紅明は峻険な山々に囲まれた高地に陣を張っていた。
「後方より連絡がありました。敵は小部隊に分かれて谷や切り通しに埋伏し、輜重隊を狙って襲っているようです。反撃されるとすぐに逃げるので手の施しようがないそうで」
「なるほど。大軍を相手にし慣れているようだな」
「感心されている場合ではないでしょう。ことごとく糧道が押さえられ、糧秣が足りなくなっています。小部隊の背後にある本陣を叩いて元から断つしかありません。兄王様、」
「紅明」
組んでいた腕をほどきもせず、紅炎は短い呼びかけで紅明の言葉を遮った。
「まさか今さら『兄王様』をやめろと言われるのですか。皇帝陛下から王位を与えられたのは事実でありましょうに」
「そうじゃない。少し声を抑えろ。ここに陣を張ったときから諜者が幕舎の周りをうろついているから作戦を聞かれるとまずい」
「ははあ、なるほど。どちらの諜者なのですか」
「どちらの……? 敵に決まっている」
「敵ですか。確かに、敵の間諜にこんな会話を聞かれたらまずいことになりますね。捕らえねば」
紅明はお気に入りの羽扇で口元を隠し、ふふと笑った。なんて悪い顔だ、と紅炎は思う。紅明は普段は物静かな男だが奇矯なところがあり、いいことを思いつくとひどく悪い顔になる。
「紅明、やめておけ。敵の諜者と間違ったふりをして義母上の手の者を斬るつもりだろう」
「お気づきでしたか」
「最近はずっとこうだ。だが敵に通じているわけでもないし、わざわざ斬るほどのものでもない」
「組織は兄王様を廃したくて反意の有無を探っているのですよ。少しでも隙を見せればわれらは離間させられ、逆臣の汚名を着せられて兵を差し向けられるかもしれないというのに。この紅明が兄上のおそばにあってそのような真似は決してさせません」
おかしな奴だ、とは思わなかった。紅炎が廃嫡されれば自動的に第二皇子である紅明が嫡子となり次の皇帝となるはずだ。組織に感謝しこそすれ憤る筋合いはないだろうに、紅明がそうしないことは紅炎には分かっている。紅明は偉大な伯父や従兄が健在であった頃からやけに真剣な顔をして紅炎に言っていた。私にあるのはしょせん王佐の才だが、兄上にあるのは王の才だ。あなたは王に、いや皇帝になるべきだ。それを聞いた紅炎は珍しく紅明を頭から叱りつけた。それこそ反逆の意志ありと見なされるべき発言だったからだが、そのとき浮かんだ恐ろしい考えから逃れるためだ。俺は皇帝になるだろう。血塗れの手で錫をつかみ、百官をしたがえ、あの玉座に座ることになるだろう。だが、決してあの薄暗くて生ぬるい、女の腹の中のような閨では死ねぬだろう。
「あんな者は放っておいていい。お前が剣を持つといつもろくなことにならん。だいたい斬っても素知らぬふりをしてまた別の者が派遣されてくるだけだ」
紅炎はため息をつく。予想される事態はそれだけではない。二人ともわざわざ口には出さないが、この遠征軍の指揮権は紅炎にある。もし本国から大兵力をもって攻撃されたとしてもすぐには討たれないくらいの大軍だ。それどころか国を二つに割り、独立することだってできる。だがそんなことはしない。せっかく「ひとつ」になった煌帝国を二つにすることはできない。
「まったく、不自由な身ですね兄王様は。父上に見張られ組織に見張られ敵国に見張られ、心安まる日などまるで」
「馬鹿を言うな。不自由などではない。戦場にありさえすれば誰でも自由にいられる。俺もお前も、そうだろう」
紅炎のところに生暖かい風がくる。暑くもないだろうに羽扇をひらひらさせているせいだ。紅明は気味が悪いほどに長く沈黙し、たったひとりの兄をじっと見下ろしていた。
「それに、こうして陣中にあればこその命だ。ここにいる限りは殺されはしない。野に兎が尽きないうちは猟犬は死にものぐるいで狩りを続ける。おそらく義母上もそれは分かっている。本気で俺を討つ口実を探そうなどとはしていないだろう」
「その警句は知ってます。しかし兎が尽きたら走狗は煮られて食われる運命にあるはずでは? まさに前皇帝のように。あれは煌が中原を平定してすぐでした」
「世界を狩り尽くすまでには相当な時間がかかる」
短くそう答え、紅炎はこめかみに拳を当てた。
「それまでは無敗の将でいなければならん。走狗は走ることができなくなったら煮られるのだからな」
伯父と従兄たちが組織によって「煮られた」後、従妹の白瑛は少女としての生を奪われて母となり将となり、白龍は泣いているだけの子供でなく暗い目をした復讐者になった。どんな事情であれ支配者が変われば都は焼き払われ物は奪われ王の血族は根絶やしにされるのが歴史の常だから、紅炎は二人に憐憫の情を抱いてはいない。一人の王が天下を平定した後、嫡子以外の息子たち、すなわち内乱のもとになる血族たちは抹殺されるのもまた歴史の常だった。伯父が中原を支配しただけで満足するような王であったら、もしかしたら父や自分たちも殺されていたかもしれないのだ。しかし戦争を続けるには強く勇猛な将が要る。たったそれだけの理由で生きながらえ、軍旅を率いて勝ち続けることで何とか生を保っていたのが紅炎だ。伯父が死んで皇帝の嫡子である第一皇子となった今もそうだし、これからもそうだろう。父が死んで皇帝の椅子に座ることがあってもだ。
「紅明、そのためにお前の力が要る。お前こそくだらない理由で殺されないよう少しは剣の腕を磨いておけよ」
「ははは、今さらまた異なことを。剣など向いておりませんよ。そのようなことは紅覇に任せます」
「武人ともあろうものが『向いていない』で済むと思っているのか。弟に守られてどうする。それにジュダルが言っていたぞ。次はお前の番だそうだ」
紅炎がにやりと笑ってそう言うと、瞬く間に紅明は顔を曇らせた。
「ジュダルはお前を王の器と認めたということだ。やり遂げてみせろ。迷宮もそう悪い場所ではなかったぞ」
遠い目をして迷宮の内部のことを思い出す。しがらみも何もなく、ただ自分の頭と力のみが試される場所というものに紅炎は足を踏み入れたことがなかった。迷宮は紅炎の地位や立場などというものなどには何の興味も示さなかったから、あそこでは練紅炎というただの一個人でいられたのだ。しかしいざそうして自分に向き合ってみると単なる個人であるところの紅炎は自分で思っていたよりも臆病で、まだ年若いジュダルに背中を叩かれたことも少なくはなかった。
「はあ……。そういえば迷宮から帰ってこられた兄王様は楽しそうにしておられましたね」
「ああ、そうだな。別人になれた気がした。そういう生があってもいいと思えるくらいには」
「別の生、ですか」
紅明は頭をぼりぼりと掻き、困った顔をした。迷宮へ行かされることだけでなく、兄がいきなり別人になりたいなどと言い出したことにも困惑しているのだろう。紅炎は声をあげて笑い、頬杖を外して紅明を見上げる。
「そんな顔をするな。たまの息抜きだ。お前にとっても息抜きになるだろうし、何より力が手に入る。お前が金属器使いとなれば心強い。組織も簡単に手を出せなくなるからな」
「そこまで言われるのでしたら」
しぶしぶ、といった感じでうなづき、紅明はまた黒い羽扇をはためかせた。今は冬だから暑いわけではないのに、これを持っているといかにも策士に見えるなどといって羽扇を手放さない。
「この紅明、兄王様を走らせる車輪となるために生きております。車輪は強く、太い方がいい。そのためでしたら迷宮くらい何のことは」
紅炎は紅明の目を見返して力強くうなづきながら、気付かれないようため息をつく。車輪か、と思う。車輪というなら、紅炎自身がそうではないか。煌帝国という車輿を走らせるために回っている。しかしそれは紅炎や紅明に限ったことではなく、誰もが誰かの車輪であり、大きくは運命という大きな車の車輪だ。車輪はわき道にそれることはできない。できるとしたら、それは人間の手によるものではない。
紅炎はジュダルの顔を何となく懐かしく思い出す。たったひとときであるにせよ、迷宮というわき道に連れ出してくれ、外地での戦争のことも宮中の政争のことも自分が車輪であることも忘れさせてくれた。目の前の弟も、迷宮にある間は目的のことや国のことや「兄王様」のことなどすべて忘れ去っていてほしいと思う紅炎だ。紅明はまじめで規律にうるさく思いこみが激しいが、長い付き合いの紅炎が思わず笑ってしまうくらい奇矯なところがある男だ。もし別の生があったなら、紅明も別の生き方をしていただろうから。
地図を広げ直し、作戦を詰めながら、紅炎はまた車輪に戻る。そこにはいいも悪いも、好きも嫌いもない。車輪が生き続けるには、回り続けるしかないのだ。