大陸から船に乗ってやってきた羽振りのよい宝石売りが気前よく献上した大粒の瑪瑙はしばらくの間そこらに放ってあった。シンドリアでは採れない宝石だから喜ばれると思ったのだろうが、八人将たちはもちろん武官も文官も側に使えている女官ですら一顧だにしなかった。おそらく誰も宝石だと思わなかったのだろう。ジャーファルにいたっては書類が風で飛ばないよう押さえるのに使う重石だと思ったらしく山のような紙の束を置くたびにかならずその瑪瑙を乗せるから東方からの来客には「よい文鎮ですね」と言われる。そんなものを机の上に置いているのが悪いのだが、宝石としてはここに来ない方がよかっただろう。
シンドバッドも仲間たちも、財宝の類は見慣れすぎるほどに見慣れていてどれだけ美しく妖しくきらきら光ろうと己の背景のひとつにしか思えないくらいには宝石の輝きに慣れきってしまっているし、しかも自分たちのその気質がそうさせるのか、このシンドリアという国の、大陸の民からすれば冗談にも見えるような鮮やかな気候のせいかは分からないが、この国の人間はさまざまな民族構成であるにも関わらず家の扉には鍵もかけないし財布をほっぽったまますぐ席を離れるし夜中でも気軽に出歩いたりもするくらいの楽観的というより何も考えていない能天気な気質で、宝石なのか石ころなのかも判然としない瑪瑙のひとつぶごときのもの、シンドバッドに下賜をねだるにも盗むにも値しないと思われている。
そうして誰にも顧みられない不幸な瑪瑙を目にするたびに、シンドバッドはこの国でなければ自分は王ではいられなかったかもしれないと思うのだった。というより自分が王でいるためにこの国を作ったのだろう。ふらっと酒場に現れてもはやし立てられたり地区中から人が集まって大宴会になるくらいでたいして恐縮もされないし、妻もおらずハレムもなく特定の寵妃がいないからといって政治的野心をあらわに近づいていくる女や女衒たちもあまりいない。絶海の孤島にあるから大陸の国にくらべれば武力衝突などの危険が少なくのんびり暮らせるが、巨大で凶暴な南海生物のおかげで退屈しすぎることもない。よってシンドバッドにとってはまことに都合のいい国なのである。七つの海をまたにかけた大冒険のすえの到達点としては最高の理想郷だ。が、人生の締めくくりとしては少し理想すぎる。
今日も元気に書類を押さえている瑪瑙を眺めながら、シンドバッドはときどき海の向こうのことを考える。歩きつくした大陸のことではなくて、もっと南の、世界の端のことだ。そこは海の水が深淵に落ちる大きな滝になっているのだという。そしてその滝を下ると、暗黒大陸に住んでいるのよりもずっとずっと大きな象が世界を支えているところが見られるのだという。とても本当は思えないその「世界の真実」をシンドバッドに話して聞かせたのはあいつだ。そんなに冒険が好きなら世界のはしっこまで行ってみろ、怖いならじゅうたんに乗せてやろーか、とせせら笑った。シンドバッドはそれを誰にも話したことがないし、どうせ嘘に決まっているのだから話す必要もない。こんな理想郷にあっては、世界の端のことなど考えても仕方がない。
そんなわけで「それって宝石かい?」と聞いたのは、基本的には客人であるところのアラジンが初めてだった。アラジンにしたところでたまたまシンドバッドがそれを眺めてぼんやりしてるところを見てしまったから聞いただけで、王族ですら目にすることもない大きさのこの瑪瑙が欲しいとか金になるとかそんなことを思っているのではないだろう。シンドバッドは一瞬戸惑ったが、すぐに笑って「そうだ」と答えた。
「積極的に粗雑に扱っているわけではないんだが、見てのとおりの大きさだから売るわけにも誰かにやるわけにもいかなくてね。かといって宝物庫に収めるほどのものでもないからな」
ふうん、とアラジンは答え、子供らしい顔に興味の表情が浮かんだ。
「きれいだね、とっても。中に赤いのが埋まってる」
「はは、『マギ』でも宝石には興味があるんだな」
アラジンは何とも答えずにはにかんで、シンドバッドに視線を送ってきた。いやな目だな、とシンドバッドは思う。年にしたら二十は下の子どもだ。なのにマギというだけで、諸侯にも王にも皇帝にも気軽に緊張を与えてくれる。どんな年でも、どんな立場のものでも、男でも女でも関係なしに。
「蓄光黒色縞瑪瑙、と言って、北方のごく限られた地域でしか採れない宝石だ。ほら、この縞になっている部分に光を溜め込んで、暗闇の中で光るんだ。きれいな石ころにしか見えないが、一応貴重品らしい。欲しいなら君にあげよう」
「いらないよ。おじさんの大事なものだもの」
「大事というほどではないがね」
シンドバッドは苦笑して瑪瑙をつまみ上げる。磨かれていない原石の状態だから球体ではないが、内部にある鮮やかな赤い円形の縞がはっきりと浮かび上がっていて、磨いたらさぞ黒く輝いて美しくなると想像できる。とはいえ、どんよりした黒が全体を覆っているので文鎮に見えても仕方がないほどの地味さではある。
「重石がないとまあ不便だが、代わりになるものはたくさんある。易々と金に換えられるものではないし、気に入ったのなら持っていって構わないんだがね」
分かってはいたがアラジンは微笑んで首を振り、またしてもシンドバッドの顔をじいっと眺めた。
「目みたいだね?」
「目?」
不首尾に終わった子どもっぽい駆け引きを引きずらず、アラジンはにっこりと笑って頷いた。
「この宝石、僕には目に見えるよ。誰かの目が埋まっているみたいで、ちょっと怖いんだ」
シンドバッドが手にした瑪瑙に視線をやると、図ったようなタイミングで大きな巻物を持ったアリババがひょっこりと顔を出して人のよさそうな笑顔で頭を下げた後、はしゃいだ声とともにアラジンは去っていった。ここは一応一国の王の執務室なのだが、出入りを禁じていないので二人ともわりと気軽に入ってくる。秘密がないわけではもちろんないから「君たちに秘密などない」というポーズには違いないのだが、別にことさら鷹揚なふりをしているわけではない。
目みたいだね、と言われた瑪瑙は急にあたたかくなったように思え、わずかに脈打っている気すらした。しかしそんなことはもちろんなく、あたたかいのはシンドバッドがずっと握っていたからで、脈打っているように感じたのは自分の鼓動が早くなったからだ。なのに黒く鈍く光るびろうどのようなもので覆われている縞の部分は、確かに瞳孔に見えてくる。病人の目のようなにごった瞳だ。シンドバッドはわざと無造作に紙の上に瑪瑙を置きなおし、部屋から出ていった。いったんそう見えてしまうと、この瞳に見られているような気がして落ち着かなかった。
以上のような経緯があったにもかかわらず、というかそんなことがあったからというべきか、シンドバッドは瑪瑙を磨きに出すことにした。大陸から移住してきた宝石職人は目を丸くし、こんな大きな蓄光瑪瑙は見たことがないと言った。磨いて形を整えれば立派に「財宝」になり、他国への贈り物としても使える、という思惑がないでもなかったが、本当を言うとにごりと曇りの中に埋まっている瞳を取り出してやりたかったからだ。大きさからして本物の眼球のように見えるに違いない。赤い瞳孔をもつ黒い眼球に。
「気持ちが悪い」「義眼に使える」「そんなものを持っていると変な趣味の人みたいに見える」という部下たちのすげない声を無視し、シンドバッドは美しく磨きあがった完全な球体をふたたび机の上に置いてみた。丸くて転がるからそのままでは重石には使えず、台座をつけないとならない。銀の玉座に支えられた瑪瑙は怖いくらいに瞳そのものに見えたが、人間で言う白目にあたる部分が黒いので余計に恐ろしく思えるらしい。ただ一人ジャーファルは黒い眼球に関しては気持ち悪いとも何とも言わなかったが、重石の見た目が少し豪華になったことについて「公費の無駄遣いにしか思えませんが宮廷らしい箔がついたことだけはよかったのではないですか」と素っ気なく告げた。
なので瑪瑙はまたしばらく重石として使われることになり、シンドバッドがそれを見つめてぼけっとする時間も減ることはなかった。瑪瑙の黒と赤い瞳孔は昼の間、光が当たると機嫌よくつるつると輝くが、少しでも陽がかげるとすべての光、すべての色を吸い込む暗黒とおぞましい赤に変貌する。闇よりも暗く、妖しく、腹の中にさまざまなものを詰め込んで平然としている夜の海、そしてその中に潜む怪物の目を思わせた。しっかりと起きているはずなのに瑪瑙の眼球を眺めていると夢をみているような感じになり、記憶と幻想の中に深く旅し、なかなか帰ってこられない。しかしそれは一人きりのときにしか起こらず、誰かが部屋にいるときの瑪瑙はひどくよそよそしく、シンドバッドほどの人間を闇に引きずり込むすべなど知らないといったふうに無邪気に美しく装っている。
政務が滞りがち、とまではいかないものの、さすがにこのままではまずい。シンドバッドはまずこの瑪瑙を重石として使うことをやめてみた。そ知らぬ顔で代わりに似たような大きさの黒真珠を宝物庫から出してきて台座にはめ込み、瑪瑙を懐にしまった。当然ながらジャーファルは重石が変わったことにすぐ気づき、瑪瑙をどうしたのかと聞いてきた。
「確かに評判は悪かったですが、ずいぶん気に入っていたではありませんか」
「別に気に入っちゃいない。ちょうどそこにあったから使ってただけで」
「財宝そのものには興味を示さなかったあなたが、ちょうどそこにあったくらいでわざわざ台座まで作らせないでしょう。肌身離さず身につけているのではないですか?」
「何が言いたいんだ」
「ならばはっきり言いましょう。あの重石に心を奪われているのでは?」
「はあ?」
「皆言っていますよ。まるで重石に恋しているみたいだと」
財宝そのものに興味がないのはジャーファルも同じで、あれをどんなことがあっても「重石」としか思っていないしどんなに美しく磨き上げられても重石として使われている限りは「重石」としか表現しない。この男のそういうところがまったくありがたく、シンドバッドのような男にとっては付き合いやすい。ほっとする。
「何を言ってるんだ」
シンドバッドは呆れた、といったそぶりでひらひらと手を振った。
「単なる宝石じゃないか。こんなもの、魔法道具でもないのに」
「そこですよ」
「そこ?」
声をひそめ、ジャーファルは咳払いをしてシンドバッドの目をまっすぐに見つめてきた。
「あれが魔法道具ではないかと皆疑っているんです。あの宝石商人はどうも怪しい。組織の人間かもしれません」
「うん? 身元は洗ったし、献上品の素性は全部調べているだろう」
一国の王という立場を抜きにしてもシンドバッドは非常に敵の多い人間なのでそこは徹底している。誰でも気軽に謁見させるわけではなし、何でもかんでも受け取るわけではない。もちろんこの縞瑪瑙も鑑定済みで、単なる宝石の原石、と結論づけられたからシンドバッドの手元にあるのだ。
「シン、信用していただくのは結構ですが万一ということもある。先日も王宮にジュダルや組織の手が入り込んだばかりです。もしその重石がそばにいる人間を魅了し操作する魔法がかけられていたら。あなたが内側から絡めとられたら、わが国はどうなります。もう一度調査を」
ずい、と手を差し出し、早く出せと目で催促する。シンドバッドはわざとらしくため息をつき、そして仕方なさそうに笑った。
「分かった。頼む。お前の言うとおりだ。俺は組織の魔法にかかることはないと思うが、確かに今は警戒してしすぎることはないな。あんなことがあったばかりだ」
「そうです」
黒い瑪瑙を懐から取り出し、ジャーファルの手に預ける。しまい込んでいたことを見抜かれたことがひどく恥ずかしく思えて唇を噛みかけたが、別に変な意図があったわけではない。あわよくば誰かにやってしまおうと思っていただけだ。シンドバッドは微笑を崩さず、ジャーファルがそれを厳重に麻布で包むのを黙って見ていた。
それから三日ほど経った頃、おかしなことが起こり始めるようになった。たいていは夜だ。いつものように鯨飲ののちにそばにいた名も知らぬ(聞いたが記憶には残っていない)女を寝台に引っ張り込んだ。誘ったとたんにすがりついてきてこれでもうあなたはわたしのものだと無邪気にはしゃぎ、それなのに次の日にはすっかり忘れているような、男にとってはまことに都合のいい、シンドリア国民らしい気質の女がそのとき一緒に眠っていた。しかしシンドバッドはどういうわけだか寝付けずに苦しい夜を過ごしていた。自力で眠ろうとするといつも思い出したくないことを思い出し、考えたくないことを考えてしまうから、すべてを忘れて泥のように眠ることができる方法をいつも探しているのだ。
気がつくと眉をしかめ、奥歯を噛み締めている。心臓のあたりをかきむしり、隣の女に決して気づかれないように声もなくあえぐ。頭の中はどろどろで、過去に起こったことのすべてがひとしく一列に並べられて特定の誰かの形を取り、順番も秩序もなくかわるがわるシンドバッドを苦しめる。思わずやわらかな寝台の外に手を伸ばしたとき、何かが指先に触れた。しかしそれが何なのか分かる前に感触は消えうせ、その代わり目を開けたシンドバッドの暗すぎる視界の中に、その暗さをすべて吸収してもまだ足らないとばかりの途方もない暗黒と一点の光をぼうっと映し出した。
目だ。赤く光り、辺りを暗く沈ませる目だ。そう思ったとたん、目には台座がついた。宝石職人に作らせた銀色のものではなく、肉と皮膚の、本物の台座だ。まぶたは顔になり、特徴ある長い髪で覆われ、まだ子どもっぽい細い首と脂肪がまったくついていない鞭のような胴体ができる。手足が生え、服がシルエットを作る。真っ黒な顔、真っ黒な体、真っ黒な髪、その中でひときわ輝く瞳の赤い光が、もはや見間違いようもなくひとりの人間の姿を形作っている。
ジュダル、とシンドバッドはつぶやいた。自分のものながら、恥ずかしいくらいにうろたえた声だった。どうしてここに、と聞きたくもあったし、あんなことがあった後によくも、と詰め寄りたくもあったし、やっぱりお前だったのか、と言いたくもあった。誰にも言わなかったし自覚すらしたくなかったが、本当はあの瑪瑙を一目見たとき記憶と影が心をよぎるのをと止められなかった。あれはジュダルの目に似ていた。ジュダルの赤い目は子どもっぽくきらきら光ってすべてものを美しく反射することもあれば、すべてのものを手当たりしだい闇に引きずり込もうとする底なしの夕闇に変わることもあった。
しかしあの黒い眼球がなぜ今ここにあるのだろう。やはりあれは魔法道具で、シンドバッドが無防備なときを狙うために組織の人間を瞬間移動させるような仕組みの魔法がかけられていたのだろうか。瑪瑙の調査をさせていたヤムライハは無事なのか。国民や客人に被害は出ていないのか。あるいはこれは魔法による幻であってジュダル本人ではないのかもしれない。違う。ああ、そうじゃない。これは単なる夢だ。眠れぬ夜がくるたびにシンドバッドを苦しめるのは、ほかでもないジュダルの記憶なのだから。
シンドバッドはきつく目を閉じ、消えろ、とささやいた。まだ酒が頭の芯に残っていることだけが救いだ。ジュダルの影に背を向け、裸の体から太陽と安っぽい麝香と放埓の匂いをぷんぷんとさせ、寝息を立てている女を片手で抱き寄せる。しかし柔らかくあたたかだったはずの女の肌は、やたらと筋張ってひんやりと冷たい肌に変わっていた。シンドバッド、と呼ぶ声が聞こえた気がした。凄みがあるが少年らしくかすれて、ほのかな笑いを含んでいる声。それを聞いたとき、手のひらの下にある氷のように冷たい腕を鉄板のように熱く感じた。
触れたことなど一度もなかった。そんな必要はないし、触れたいと思ったこともなかった。触れてどうしたいのか、考えたこともなかった。シンドバッドは全身の筋肉を硬直させ、腕に触れているこの右手をどうしたらいいのか必死で考えている。まるで女を知らない少年のようなありさまだ。冷たい肌のあるじはその様子に気付いているのかいないのか、バカ殿、と、この世界でただ一人にしか許されない呼び方でシンドバッドを呼んだ。腕はぴくりとも動かない。ときどき笑いのような不規則な呼吸が空気を震わせるだけだ。ジュダルが本当にそこにいるのか、だんだん分からなくなってくる。だが少しでも疑ったらあの陽気で従順な顔のない女に戻ってしまうような気がして、シンドバッドはきつく唇を噛んだ。それでもジュダル、と呼ぶことはできないのだった。ジュダルはここにいてはいけない人間だ。この国を滅ぼしてしまおうと宣言し、難なくそれが実行でき、まったく躊躇もしないであろう男に、寝台の暗がりの中でその名を呼びかけることなどできるはずがなかった。手のひらに確かな感触がある。長い時間静けさを保っていられない、子どもらしい息遣いも感じる。影はあたりの闇を吸い込んでますます濃くなり、もはや見間違いようもないほどに「ジュダル」を作り上げていた。
シンドバッド、ともう一度呼ぶ声がした。前腕を覆っている腕輪が肩に触れてひやりと冷たい。それと対照的に熱い手がシンドバッドの頬をつぶすようにぎゅうと押し当てられた。なんだよ、変な顔してんな、バカ殿。ひ、ひ、という一応は抑制されたからかいの笑い声が同時に響く。大声をあげて叫びたかった。早く出て行け。この国から、俺の中から出て行け。一刻も早く。金属器は手を伸ばせば届く位置にある。殺せはしないだろうが、追い出すくらいはできる。しかしシンドバッドはそうしなかった。同時にまったく別のことを強く思ったからだ。どこにも行かないでくれ。
少しでも腕の力をゆるめたら消えてしまう、とでもいうように力の限り強くその体を抱きしめたとき初めて、喉の奥から搾り出すような声で、ジュダル、と呼んだ。ジュダルはそれには応えず、いってえよ、と口を尖らせた。その体からは埃と墨と沈香と甘い果実のような匂いがした。それは煌帝国の王宮に充満していた匂いとまったく同じだった。ジュダルは煌帝国を「俺たち」と呼ぶのだ。その複雑な異国の匂いの中で、シンドバッドはそれをまざまざと思い返している。
こうなることは当然であり、運命だったのだろう。殺しあおうと言われたときもそんなには驚かなかった。きっとどうにもならなかったのだろうし、無理にでもどうにかしようと思ったらそれこそ皆の運命を堰き止め、逆巻いてしまわなければならない。こんなことにならないためにやれることもやるべきこともやりたいことも、シンドバッドにはひとつもなかった。
だが「こう」なったことを少しだけ恨んでいる。ジュダルに意志らしい意志などない。煌帝国につくと決めたのも組織であってジュダル本人ではないはずだ。ジュダルは組織に定められたレールに乗っただけで、後からどうにかしてそれらしい楽しみを見出そうとしただけだ。それを少し恨んでいる。こんなレールに乗りたくないと一言でも本心から言ってくれなかったことを、シンドバッドは心の底から恨んでいる。かわいそうになっちまったのか、なんて笑い事にしないでほしかった。ジュダルはシンドバッドを途方もない闇の力で、あるいは阿呆のように幼いやり方で自分の方に引き寄せようとするばかりで、ついに自ら「こっち側」にこようとはしなかったのだ。
肩に埋めていた顔を離し、恐る恐るジュダルの顔を見つめる。自分のまぶたがひくひくと震えているのが分かる。ジュダルの顔の造作はすべて影に隠れているが片目だけが爛々と赤く輝いている。月明かりも入ってこないというのに、その目はシンドバッドの顔をはっきりと映し出した。なんて顔をしているのだろう。おそらくジュダルもそう思っているだろう。変な顔、と言ってせせら笑うだろう。もしできるのならそうしてほしかった。シンドバッドは赤く光る黒い瞳に手を伸ばした。すべてをしっかりと映していながら、この国の、おれの「マギ」にはならなかったおまえの瞳。肉の台座からくりだしてやろうとしたがそんなことはとてもできなかった。代わりに貪ってやろうと思った。肩をつかみ、不必要なほど強い力で寝台に背中を押し付ける。もう名前を呼ぶことはできなかった。呼んだらきっと、すがるような声色になってしまう。自分で自分のそんな声を聞くたび、誰もかれも、そして誰より自分があんなに大事にしている「シンドバッド」である自分が、少しずつ死んでしまいそうな気がしたから。
何日か、そういう夜が続いた。酒を飲んでいないとき、腕の中に誰もいないときにもジュダルは現れた。黒い瑪瑙はとっくにヤムライハの手を離れ、またシンドバッドの懐に戻ってきていた。入念な鑑定の結果は「ただの宝石」だ。闇の魔法の力ではない。だがジュダルはあんな宣言をした以上ふらっとこんなところにやってくることなどないのだから、もちろん本人でもない。そこから導き出される答えはひとつしかない。シンドバッドの夢だ。
ジュダルが宝石を媒介にして寝室に現れることは誰にも言っていない。あんなことがあったばかりで、夢であろうと皆気色ばむのが目に見えている。しかしそうでなくとも言えなかった。そんな夢を見ていることを知られたくなかったし、もし夢でなかったとしても、あの狂態を知られるわけにはいかなかった。シンドバッドは昼の間は努めてそれを思い出さないようにしている。瑪瑙が懐の中にあるのは、その眼球が縞模様の瞳孔の中に光を溜め込まないようにするためだ。この国の強烈な太陽に照らされれば照らされるほど、赤い瞳孔は闇の中できわどく光りシンドバッドを声もなく誘惑する。ジュダルらしい幼く愚かでおぞましいやり方で自分の領域に引きずり込もうとする。違う、夢だ。しかし夢でも現実でも同じだ。おれはおまえのものにはなれないし、おまえもまたおれのものにはなれない。なすべきことも、一緒にいる理由も、何一つ持ち合わせていない二人だ。
珍しく雨が降った朝、アラジンとアリババが王宮の片隅でいつだかに持っていた大きな巻物を広げ、難しい顔をして何かを相談していた。それはシンドリアがまだ載っていない頃の古い地図だ。冒険者たちによって日々新たな地域や国が書き足されていくから、地図というのはすぐ新しいものに置き換わってしまう。地図屋はが食い詰めることがない。シンドバッドもかなりの地域を旅して地図屋の商売に貢献したはずだが、それでも白紙になっているエリアの方が多い。そしてシンドリアのずっとずっと南の海、要するに地図の下端には何も記されていない。どういうわけだか二人はそこを指差し、そのことについて何かを話し合っているらしかった。
「何があるんだろうな、世界のはしっこって」
柱の陰に隠れながら、ほう、とシンドバッドはつぶやいた。世界の終端がどうなっているのか、ということに興味を持った人間と出会ったことはあまりなかったからだ。シンドバッドがそれを誰かに聞いたり想像を披露したりするたび、「何でそんなことが気になるのか」という目をされた。だから純粋に少し嬉しかった。
「探しに行きたいかい? 世界のはしっこにあるものを」
「そりゃ行きてえけど、まだ行ったこともねえとこの方が多いっつーのに生きてるうちにたどりつけっかな」
「できるよ! だって約束したじゃないか、世界中を冒険しようって。いつか一緒に行こう」
シンドバッドは軽く目を閉じ、懐の中に手を差し入れて冷たい眼球を取り出す。柱の影は闇となり眼球は赤い光をぼんやり放っている。世界のはしっこに何があるのか、そんなに知りたけりゃ連れてってやるよ、とあのときジュダルは笑って言った。新しい楽しみを見つけた子どものように、赤い瞳が踊っていた。その目はおぞましくも暗くもなかった。血の色をすかす、ただのいたいたしい赤だった。何の打算もなかった。
手の中の黒い眼球に、ジュダル、と呼びかけようとしてやめた。今呼んだらきっと、すがるような声に聞こえてしまう。シンドバッドはその夜から黒い影に覆われているジュダルの夢を見なくなった。代わりに見るのは大きな滝と大きな象の夢だ。へへん、どうだバカ殿、ホントだったろ、とはしゃぐ声を隣で聞いている。シンドバッドは何とも答えない。同じことの繰り返しになる前に何か言わなければ、と振り向いた瞬間にジュダルの瞳が目に映る。埃と墨と沈香と果汁の甘い香りがする。その目は暗く、妖しく、世界のすべてを飲み込もうとする貪欲さで、もはやもうシンドバッドを見てはいない。