白龍は女たちの中で生きてきた。父や兄、叔父や従兄たち、それに連なる将たちは転戦を繰り返してほとんど宮には帰ってこなかったし、誰も末子の白龍にはうるさく言わなかったから、白龍は母や姉、女官たちの間に隠されるようにして育てられた。痛いときや悲しいときは好きに泣いてよかったし、王族として不調法であっても夜はさみしければさみしいという理由だけで母や姉の寝所へ行ってもよかった。自分では何ひとつできなかった。女たちは自分たちの手の中にある幼い王子を惜しみなく愛した。地響きのような蹄の音、聞くだけで骨まで断ち切られそうな剣戟、この世のすべてを獣欲に染める血と暴力など、白龍にはもっとも遠いことのように思えた。そう、あなたは守られて生きるべきなのよ。白龍、あなただけはいつまでも私のものでいてちょうだいね、と母はあたたかく暗い寝所で何度もささやいた。
ときどき返り血をまとわせたまま帰ってきて女官に足を洗わせている父や兄たちを見るたび、白龍は怖くて母の裳裾の陰に隠れていた。母は裾をつかまれながらも彼らに優しく声をかけ、自ら血の汚れを落とし、言葉を尽くしていたわっていた。父と長兄は無口なたちだったから、そのねぎらいに上機嫌に返事をするのはだいたいが次兄の仕事だった。しかし今となれば、あのときから母と三人の男たちの間には不信の溝があったように思う。その会話は用心深さに満ちていた。
その後父は決まって白龍に厳しい視線を投げた。引きずり出して説教をするわけではなかったが、母の陰に隠れていることを責めているかのようににらみ、「白龍に槍を持たせよ」と女官に告げた。白龍はぎゅうと母の裳着をつかんだが、無駄な抵抗だった。この時間が一番恐ろしかった。
槍術の指南役は父でも兄でもなく、従兄の紅炎と配下の部将だ。二人は槍使いというわけではないし父に比べれば厳しくもなかったが、白龍にはそれが怖かった。二人とも白龍に特別な関心はなくただ父の命じたままに型どおりの指南に徹している。構われて生きていた幼い白龍には無関心というものがもっとも恐ろしい精神的暴力に思えた。父はそれを分かっていたから紅炎に指南を命じたのだろう。
鍛錬の最中、紅炎は兄たちと比べるべくもない白龍に「弱い」とも「根性なし」とも言わなかった。紅炎は兄に負けないほどの将器の持ち主だが父がいる限り王族にはなれない。単なる部将であり、日陰の身だ。いくさも血も知らず女たちの中でぬくぬくと暮らしている幼い王子の白龍の方が、紅炎よりずっと立場が上なのだ。しかし紅炎はそんなことをおくびにも態度に表さず淡々と指南をして、やがて帰っていった。
永遠とも思える時間が過ぎ、紅炎が行ってしまうと姉が駆け寄ってきた。白龍は槍を杖代わりにしてようやく立っていた。このとき姉はたったひとりの「お姫様」で、まだ世間知らずの可憐な少女だったが、自分よりずっと弱い白龍に対しては小さな母のように振る舞っていた。姉の姿を見たとき、白龍は無関心にさらされ続けてすり減った自分が柔らかな毛布でそっと包まれたかのように安心した。自分は父や兄たちのようにはなれない。裸にされ続けて一人で立って生きていくなんて、そんなことできない。白龍は姉に優しく抱えられながら、姉上、置いていかないでください、と繰り返しつぶやいた。ずっとあなたたちの「いい子」でいるから、だから置いていかないで。
初めて人殺しをしたのは十五になってすぐだ。宮中の奥深くに隠され、すべてから遠ざけられ、いくさにも連れて行かれなかった白龍は、刃が人の肉に食い込む感触をそれまで知らなかった。激しくうごめいてやがて息絶えた男の体を見て、言いようのない恐怖を感じた。寝具に染み込むおびただしい血、部屋中に広がる血の匂い、体のすみずみまでみなぎる熱とおぞましい興奮が白龍の膝をがくがくと震えさせた。手に飛び散った返り血があたたかくて、しばらく我を忘れていた。
男は後宮の宦官で、皇帝に直接謁見を取り次ぐことのできる上役の一人だった。白龍も顔を知っている。なぜ殺したのかといえば、姉を異民族の王と婚姻させる計画を進めていたからだ。しかしちゃんと表向きの理由も考えてはいた。この宦官はその異民族から賄賂を受け取っており、紅炎が率いている遠征軍の動向を彼らに逐一知らせている。その金で財を築き、帝都に巨大な邸宅を持っている。その場で処断できるほどの利敵行為だ。だが白龍はそんなものはどうでもよかった。姉を蛮地に追いやろうとすることの方がよほど重大な罪だった。
白瑛は第一皇女となったそのときから処遇を持て余されており、嫁入りの話が出るたび他の皇女に譲る形となって立ち消えた。もはや皇女として生きる道を捨てさせ金属器使いとして将軍位につかせるしかなくなったところで、どこからともなくまた婚儀の計画が持ち上がった。計画というよりは謀略だった。駒として使える皇女はもはや姉しかいないからだ。白龍は青舜からその話を聞いた夜、迷うことなく宦官の私邸へゆき、男を殺しに行った。
むせ返りそうなほどの血の匂いの中で、白龍は呆然としていた。殺したはいいがこの後どうしたらいいのだろう。男は寝台の上ですでに事切れており、だらしなく血を流したままぴくりとも動かない。誰か、と叫びそうになってあわてて両手で口を押さえた。こんなことをしておいて、誰かに知らせて何とかしてもらおうなんて甘えた考えだ。しかし白龍は顔の下半分を覆っている血まみれの手がかたかた震えるのを止められなかった。どうしたらいいんだ、どうしたら。そのとき、厳重に閉めたはずの鎧戸が突然開かれた。同時に都に雪を降らせるほどの冷気が部屋になだれ込んでくる。
足音もしなかったし、呼吸の音も、気配すらもなかった。現れたのは死神か幽霊なのだと思った。迎えに来てくれたのが姉だったらどんなによかっただろう。何て馬鹿なことを、と叱ってくれて、そして涙ながらに礼を言われるのだ。ありがとう白龍、これでまたあなたのそばにいられますね。そんな自分勝手で醜い願望を見透かしたように、闖入者はにやりと笑った。
「ふうん、誰かと思えばお前かよ」
その人物は窓に足をかけて部屋に入ってきた。長い髪が着地と同時に跳ねる。ジュダルは血を踏まないよう少し浮き上がり、白龍の方へ近づいてきた。
「お前さあ、殺すならもっと上手く、バレないように殺せよな。悲鳴が外まで聞こえてんぞ」
なんで、と言おうとしたが言葉にならなかった。
「でもまさかお前とはなー。ふーん。意外とやるじゃねーかよ。親父どもの裏をかくなんてな」
「う、裏? 何のことだ」
ジュダルはにやりと笑い、白龍の頬についた返り血を指で拭った。
「よくしらねーけどこいつ悪いことしてたんだろ? 親父どもはとっつかまえて拷問して洗いざらい吐かせて言うこと聞かせる予定だったらしーぜ。でもまさか先越されるとはなー。しかもお前なんかに」
話の内容と違い、ジュダルはまったく悔しそうには見えない。それどころか楽しそうだ。白龍は血の匂いのする空気を吸い込み、少し冷静になった頭を動かした。
「『親父ども』というのはお前たち組織の長か何かか」
「ちょっと違うけどまあそんなもんかもな。それよりお前、そのままでお城に戻んなよ」
「なぜです」
「いかにも殺人してきましたーって感じだろ。白瑛にバレたら口きいてもらえなくなるぞ。自分の結婚妨害してたのが弟だったなんてことがバレたらな」
「ち、違う!」
白龍は目をむいて、にやにやしているジュダルをにらみつけた。
「そんな理由でこの宦官を殺したわけじゃない。こいつは敵に通じて私腹を肥やしていた。殺したのは、煌帝国のためだ」
「へー、言い訳まで考えてきたのかよ。箱入りの皇子様にしちゃましな方だな。そんなん誰も信じねえと思うけど」
「消えろ」
声をひそめて敵意を込め、血塗れの刃をジュダルに向けた。亡き兄の形見の短刀だった。質実剛健な兄らしく装飾はほとんどついていないが切れ味は抜群だ。
「これ以上お前と話をしたくない。お前だって目的を達することができない以上、ここにいても無駄だろう。ここから消えろ、今すぐに」
「お前全然分かってねーな。俺がここを離れたらどうなると思ってんだよ。一人で来てると思ってんのか?」
ジュダルは窓の方向を顎で指した。窓の外は暗黒だったが、ぼんやりとした小さな明かりがいくつもついているのが見える。シェードをつけたランタンだ、ということに思い当たるまで、そうはかからなかった。
「囲まれているのか、まさか」
「そーだよ。今気づくなよ。ったく使えねー皇子様だよなあ。そんなんじゃ玉艶は殺せねーぞ」
「黙れ! 確かに俺の手抜かりだ。だが、お前たちを相手に討ち果てるなら本望だ。俺は、死ぬまで戦う」
腕に力を入れ、短剣を構える。こんなことなら槍を持ってくればよかった。しかしジュダルがここにいる以上、組織の人間たちを傷つけるどころかこの部屋を出ることすらできないだろう。何しろジュダルはマギなのだ。普通の人間には想像できないような方法であっけなく白龍の首をねじり切ることができるかもしれない。心の中で父と兄に謝罪をする。ひたすら無念だ。白龍がいなくなれば、真実を知る者も組織に抵抗する力もなくなってしまう。悔し涙がにじみ、短剣を持つ手が震えた。
「なあ白龍」
「馴れ馴れしく話しかけるな! やるならやればいい。どんな方法でひねり殺されたって、俺はお前たちの喉元に必ず食らいつく」
「はあ? 何言ってんだよ。まあ別に死んだっていいけどよお、せっかく俺がいるんだから上手く使えよ。味方してやるって言ってんだぜ? この俺が。マギ様が。分かってんのかよ」
向けられた刃先を気にも止めず、ジュダルはははっと笑って白龍の肩を頼もしげに叩いた。何言ってるんだ、と言いたいのはこっちだ。
「お前を使う? 味方? どういうことだ」
「どうもこうもねーよ。飲み込みのわりい奴だな。この囲みを突破すんのに俺が力貸してやるって言ってんだよ。ありがたく思えよ」
「意味が分からない。外にいるのは組織の者たちだろう。いつもの、顔を隠している神官集団ではないのか」
はああ、と脱力し、ジュダルはその場に座り込んだ。珍しい光景だ。
「お前さあ、ほんとにバカだよな。こんな豚一匹とっつかまえるのなんか俺一人で十分なんだよ。あいつらはお前が連れてきたんだろ」
「俺が? なぜです。援軍なんて誰にも頼んでいない」
「ちげーよ。外にいるのはお前が殺した男の息がかかった奴らだよ。百人はいるな。お前が殺しにくるのを知って護衛させようとしたんだろ。でもまあ、一足遅かったな。しかもお前の素性は知らされてなさそうだし、有利だぜ?」
「そんなバカな!」
全身が総毛立つ。青舜と話をした場所は白龍の私室だったはずだ。そんな私的な場所での会話を聞かれているなんて、想像もしていなかった。何しろ父や兄が死んでからの白龍は、ずっと無関心の檻の中に閉じこめられてきたのだから。
「中に俺がいるのを知ってるから今は手出せねーけど、俺が離れたらお前串刺しにされんぞ。だから言ってんだよ、味方してやるって」
「……」
「分かったか、自分の状況ってやつが。ほら、早く暴れに行こうぜ。あいつら弱そうだからつまんねーけどよ」
ジュダルは血で汚れるのも構わず、短剣を持ったままの白龍の手を引いて外を指した。金属が擦れ合う音も、弓弦のきしみも聞こえるのに、まるで踊りの輪の中に進み出るかのような気軽さだ。
「離せ。お前の力を借りるくらいならここで死に果てた方がましだ」
「へー? じゃあ死ねよ。親父どもも安心してお前のせいにできるぜ?」
「お、俺のせいに!? なぜですか」
「お前が白瑛に結婚してほしくなくて激高してこの豚一匹殺して、でも私兵に討たれて共倒れ……ってシナリオだよ。組織の名前なんか出てこねえ。最高だろ。白瑛もお前がバカやった責任取るって名目で嫁に行けるしな」
ようやく事の重大さに気づいた白龍は息を呑んで黙り込んだ。馴れ馴れしく肩にもたれかかっていたジュダルは顔色の変化に気づいたのか、にやりと笑って白龍の手の上からぐっと短剣の柄を握った。
「ほんとなら土下座してお願いしてもいいとこなんだぜ」
「うるさい、指図するな。納得はしていない」
「あーはいはい、ぐたぐた言ってねーで早く出ようぜ。氷で全員串刺しにしてやるから取りこぼしたのはお前が殺せよ」
ジュダルは軽く腕と肩を回し、楽しげに杖を構えた。戦って人を殺すときだけは心底楽しそうな男だ。反吐が出る。白龍は赤く光り始めた杖の先を短剣で払った。
「おい、何すんだよ。まだなんかあんのかよめんどくせーな」
「ある。彼らを殺すな」
「はああ? 何言ってんだよ? 命狙われてんだぞ。殺さずに済むわけねーだろ。甘いんだよ、この箱入り皇子様が。人殺しが怖いだけのくせに」
図星なだけに頭にくる。ぐ、と息を飲み込んで怒りをこらえ、白龍はくるりと背中を向けて死体のそばへ近寄っていった。心臓を一突きにされた男の首に短剣を押し当て、力をこめて頭と胴を切断する。よく切れるとはいっても短剣だ。力は入りにくいし、何より男の首はたっぷりと脂がついていて、刃の切れ味を鈍らせる。首を完全に切り離す頃にはすっかり息が上がっていた。
「彼らは私兵とはいえ、煌帝国民だ。国に背信し、死罪となってもおかしくない男に全員が命を差し出すとは思えない。あるじの死と犯した罪を思い知らせればもはや命がけで戦おうとすることはないでしょう」
「ふーん。思ったよりやるじゃんお前。全っ然甘いけどよ、俺が目つけてるだけのことはあるな」
「俺は皇子です。煌帝国と皇帝陛下に背く者を討ち果たす責任がある」
「そりゃタテマエってやつだろ。まあいいや。上手くいくとは思えねーけど好きにやってこいよ」
手に残る感触のせいで気分は最悪だった。人殺しや人の首を切断することなんて二度としたくないし、こんな謀略まがいのことだってまっぴらだ。あたたかくて柔らかなところで守られて隠されて生き続けていたかった。ずっとあのままでいたかった。今ではあたたかなものなんてすべて奪い去られ、無関心と敵意に囲まれているのに、それらから身を守るものなんて何もない。ただ使命を果たし、姉を守るためだけに、白龍は一人で立たなければならない。
やらなければ、と白龍は低くつぶやいた。敵国を恭順させるための婚姻など決して姉を幸福にはしない。戦況次第で簡単に命が脅かされるからだ。それなのに白龍はついていけない。誰も姉を守るものがいない。だからどんなに嫌でも、この男を殺すしかなかったのだ。そりゃ建前ってやつだろ、というジュダルの言葉が脳裏に浮かび、白龍は思い切り頭を振った。
ため息をつき、窓に足をかける。外は雪だから城都は白く覆われているはずだが、闇に沈んでその白さえ見えない。一気に外へ飛び出そうとしたとき、引き絞っていた弦を一気に離す音がした。ひゅん、と音を立てて矢が飛んでくるところが、やけにゆっくりと見える。白龍は無数の矢に貫かれている自分の姿をありありとイメージした。やっぱり甘かったのだ。何も言えないうちに、何も果たさないうちに射殺されてしまうのか。馬鹿だ、俺は。
だが白龍はまだ生きていた。絶対に死んだと思ったのに痛みも何もない。ただ冷たいそよ風が吹き抜けていった、ような気がした。
「矢なら防いでやるからさっさと出ろって。つっかえてんだよ」
うんざりした声が背後から聞こえ、白龍は思わず振り返った。ジュダルが魔法で矢を払ってくれたらしい。
「なぜ、ですか」
「だから言ってんだろ。手貸してやるから感謝しろよって。いいから早く行けよ。矢が尽きたら槍ぶすまが来るぞ」
すでに男たちのときの声が聞こえる。白龍はあわてて外へ出て、降り注ぐ雪と矢の雨の中に立った。
「攻撃をやめろ! お前たちが剣を向けている相手の名を知っているのか?」
大声でそう怒鳴ると、ざわめきがさざ波のように広がっていった。
「知らないようだな。俺は煌帝国第四皇子の練白龍、隣におられるのは我が国の神官殿だ。お前たちが煌帝国の民ならどちらも知らぬはずがないだろう。刃を向けただけで死罪となる相手だぞ!」
暗闇でよく顔が見えないからか、私兵たちは確証が持てないといった様子でいぶかしげに声をあげていた。このままではまずい。白龍は隣でのんきにあくびをしているジュダルを肘でつつき、「魔法で明かりを」と小声でささやく。
「お前たちの主人はもはやこの世にはない。背信行為を働いた罪で俺が皇帝陛下の命を受けてひそかに処刑した。ここにいる神官殿が処刑に立ち会った。そして前皇帝が定められた法によればお前たちも連座となるはずだ。俺と神官殿がこの場で処断する。この裏切り者どもめ、覚悟しろ!」
その一番いいタイミングで、強烈な光があたりを照らした。まぶしすぎて目を開けていられないほどだ。ジュダルは自分の頭上にルフを集め、小さな太陽のようなものを作ったらしい。白龍は思い切り腕を振り上げ、その光の中に宦官の首をかざした。効果は絶大だ。昼よりも明るい光に照らし出されたあるじの首、見間違いようもないやけどの跡がある白龍の顔、城都では知らぬ者のいない「神官」の不思議な魔法。まだ何もしていないというのに、官兵よりもよほど堅牢な装備をつけている私兵たちは驚きと恐怖のあまり総崩れになった。弓も矢も槍も剣も打ち捨て、悲鳴をあげ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
だが冷静になりさえすれば逃げる必要などないということが分かったはずだ。練家の男子はほとんどが金属器使いだが、白龍はそうではない。それによく見ればほとんど丸腰に近いことだって分かるし、頼みの「神官」は一応杖を振りかざしてはいるがどう見てもやる気のない顔をしている。偶然が積み重なっただけで意図していたわけではないが、すべてこのパフォーマンスのおかげだろう。一人も殺さずに済んだ。かといって全員がおとなしく一市民に戻るわけではないだろうから国内に反乱の火種を抱え続けることになるが、白龍としては姉に関わらなければそんなものは別にどうだっていい。それどころか火種のままで終わらず近いうちに火を起こしてほしいとすら思う。そしてこの煌帝国を焼き尽くす大火となれば都合がいい。
「終わった、のか」
何となく気が抜けて、白龍は雪の上に膝をついた。男の首から流れる血が雪を染める。ジュダルが杖を下ろすとふっと光は消え、やさしい暗闇が戻ってくる。
「いなくなったみたいだ」
気が抜けただけではなく力まで抜けて、膝立ちの状態から立ち上がることができない。溶けた雪が服に染み込んできて膝が冷たい。相変わらず遠くから悲鳴が聞こえ、あたりの民家からもざわめきが聞こえた。
「なかなかよかったぜ、お前の猿芝居。光がビカーっとなってあいつらがウギャーってわめいてたとこなんてすげー笑えたし」
「猿芝居で悪かったな。あの男を殺したのが義父の命令だとか、あなたが証人だとか、そんな気分のよくない嘘までついたんです。上手くいかないと困る」
「その程度の嘘で気分わりーのかよ。そんなんで白瑛にどう言い訳すんだよ、その首」
ジュダルは杖で興味なさそうに血だらけの首を指した。雪にまみれ、冷たさで皮膚の色が変色しかかっている。
「『これ』は官吏に事情を離して引き渡し、事後処理を頼んでおきます。姉にはこのことを知らせるつもりはないので、あなたも姉には何も言わないでいただきたい」
「あー、無理」
「なぜです?」
「こんなおもしれー話黙ってろとか無茶言うなよな。だいたいよお、バレるに決まってんだろ。甘いこと言ってんなよ。黙ってようが嘘つこうがどんなご立派なタテマエがあろうが、お前が白瑛の結婚気にいらなくて妨害したことは隠せねーよ。笑われる覚悟は決めとけよな」
白龍は言い返そうとしてやめ、拳を握りしめた。確かに隠しておこうなんて甘い考えだったかもしれないが、バレてもバレなくても結果は同じだ。宮中では同情を装った無関心の視線を向けられるだけで終わるだろう。家族を失い、姉に過剰に依存する以外に生きる意味も価値も見つけられない、かわいそうな子供。白龍の方だって今のところその立場を越えて誰かとかかわり合う気などなかった。白龍の周囲には真実を覆い隠し、やさしい誤魔化しと嘘でできた天幕が張り巡らされている。本気で同情してくる相手もいるし、存在としては厄介で面倒だから同情しているふりをして体よく遠ざける相手だっているが、分厚い綿に包まれるような扱いを受けていることは変わらない。誰も本当のことを言わない。父や兄の死の真相、ざまあみろという言葉、なぜお前だけが生き残ったんだという憎しみの視線を誰も白龍には向けてきてくれない。今でも白龍はすべてから遠ざけられて生きている。無関心に包まれた蜜月の中に生きている。そこには熱さも冷たさもなく、自分自身が怒りと使命を忘れてしまえばそれきりになってしまいそうなほどの安堵感だけがある。
子供の頃と同じじゃないか、と白龍は思う。すべてを失っても、白龍は偽りと無関心とに隠されてぬくぬくと生きている。そこではただ悲しむことしか許されていない。それなのにこいつはやすやすとその厳重な囲みを破り、面白半分に真実の槍で白龍を突き刺して笑うのだ。ジュダルは悲しみの仮面に隠された怒りを呼び起こし、恨みを強く思い出させる。
「ジュダル」
「何だよ?」
「それを笑うのはお前だけだ。俺のことを情けない奴だって笑うのは。みんな何も言わない。姉上だってこれを俺がやったと分かったらきっと何も言わない。白龍がやったんなら仕方がない、と思われて、それでおしまいだ。俺が何をしようと誰の害にもならないし、益にもならない。どうこう言うのはお前だけだ。だから、」
ジュダルがそばにいるといらいらして腹が立って我慢ができなくなって一刻も早く立ち去りたくなるのは、きっとこいつが本当のことしか言わないからだ。姉にすがってばかりで情けないとか弱いとか、そんな当たり前の「本当のこと」を、難なく白龍に突きつけてくるのはジュダルだけだ。白龍を取り囲んでいるやさしさや穏やかさや無関心を取り払い、本当の意味で自分をこの世界に一人で立たせることができるのは、もしかしたら。
「俺はあんたが大嫌いだ、神官殿。そばにいられると虫唾が走るし、腹が立って仕方ないし、一秒だって近くにいたくない。お前がいなければみんなもっと幸せに生きられたんだ。お前の存在自体が不愉快だ」
「なあ、まだその話終わんねーの? 早く帰ろうぜ。さみーし体中くせーから風呂入りてえ」
「人の話はもっとちゃんと聞いてください! 何とも思わないんですか、ひどいことを言われたのに」
「お前みたいななっさけねー弱っちい奴に嫌いって言われたって誰も何とも思わねーんだよバーカ。何とか思われたいんならよお、迷宮行って一気に強くなれよ。誰もお前のこと無視できねえくらいにな。そしたら『誰かの害』くらいにはなれるぜ? この俺が連れてってやるって言ってんだから素直についてこいよ。どうせ他にあてなんてねーだろ。お前人脈ゼロだもんな」
「何を言われようとお前とは絶対に行かない」
「ったくめんどくせー奴だな」
白龍は立ち上がり、肩にうっすら積もった雪を赤くなった手で払った。寒さと冷たさのあまり皮膚の感覚がなくなっている。ジュダルはじゅうたんを取り出し、暗い宙に広げた。
「んじゃ俺帰るから。お前は一人で帰れよ。乗せてやってもいいけど、どーせ『お前の力など借りたくない!』とかめんどくせーこと言うんだろ」
「あの、神官殿」
じゅうたんによじ登ろうとしていたジュダルは億劫そうに振り返った。白龍は震える手でジュダルの頭に積もっていた雪を払い、うつむいてから「ありがとうございました」とつぶやいた。
「確かに神官殿の力など借りたくなかったが、礼だけは言っておきます。あなたがいなければ、俺も今頃こうなっていたでしょうから」
手に持っていた男の首に視線を移し、白龍はそう言った。その首は死人特有の濁った目で無念を訴えてくる。
「お前を今殺すのがもったいねーから手え貸したんだよ。お前はこんなところで、こんな弱い連中相手に、こんな馬鹿みたいな理由で死ぬ奴じゃねーだろ」
「……」
「なっ? 俺がお膳立てしてやるから、死ぬときはもっともっと強い奴相手にして、すっげー派手に死ねよ? 金属器あった方がただ死ぬよりも楽しい死に方できる思うぜ。死んだことないからわかんねーけど」
「……そうですか」
「何だよその顔」
「礼を言ったのが間違いだ。さっさと俺の前から消えてほしい」
「なーにイライラしてんだよ。たまってんのか? 抜くの手伝ってやろうか? えんりょなんかすんなよ、俺とお前の仲だろ」
「ふっ、ふざけるな! なんて下劣な! 下品な冗談を言ってる暇があったら早く行ってください!」
猫でも追い払うかのように手を振り、白龍はジュダルに背を向ける。じゅうたんは雪が舞い落ちる闇を切り裂いて飛んでいき、一人残される。虫酸が走るし腹が立つのに、なぜか笑い出したいほどおかしかった。たった一人で真夜中に血だらけの生首を抱えて雪の中に立っているというのに、ちっとも怖くなんてなかった。自分で決めたことなんだから、後悔なんてしなかった。置いていかないでなんて、思いもしなかった。