宙に浮く、という魔法は便利なものだ。足音も立たないし、気付かれない。ジュダルはさかさまになって白龍の部屋を窓から覗き込んでいた。だが窓は過剰に装飾的で、邪魔な部分が多くて細かいところまでは見えない。部屋の中からは高級そうな沈香が漂ってきている。白龍があまり使わない香りだ。紙にでも焚き染めていたのだろう。陳腐すぎて笑ってしまう。もっとスマートなやり方をすればいいのに、本当に不器用な奴だなと思う。
「……笑い声が漏れてますよ」
「何だよ、気付いてたのかよ」
「もっとスマートなやり方で覗けないんですか」
白龍は悪態をつきながら、羞恥で顔を赤くしあわてて紙を隠していた。
「別に隠すことねーだろ。続けろよ」
「嫌ですよ。どうせどこかへ行けと言っても行かないんでしょう?」
「ははっ、分かってんじゃねーかよ」
ジュダルは金や絹でできた装飾を適当に脇にのけて部屋に押し入る。白龍は必死に紙を隠しながらジュダルと一定の距離を取っていた。
「ずっと見てたんだから今さら隠したって仕方ねーだろ。バカじゃねーの」
「そ、そういう問題じゃない。他人の前で書くものじゃないんです」
紙は急いで畳まれ、朱塗りの箱の中に仕舞われてしまう。墨と筆もとりあえず、といった感じで脇に置き、白龍はふう、と息を吐いて沈香が漂う自分の部屋を居心地悪そうに眺めた。
「その手紙、ひとっとび行って渡してきてやろうか? せっかく紙に香まで焚いたんだろ。自分じゃ使いそうにねーやつわざわざ出してきてよ」
「結構だ」
「手紙なんて出してもぜってーつかねーぞ。戦時中だぜ?」
「いいんです! 読んでもらうために書いたわけではないから、渡すつもりもないんだ。ただ、その……心の整理をつけたくて」
恥ずかしそうに唇を噛み、白龍は素直にそう言った。やけどで変色した肌にも血が上り、どこかおかしな色になっている。
「ふーん、心の整理ねえ。フラれたくらいでなに大げさなこと言ってんだよ。めんどくせー奴だな。もう一年も前の話だろ」
「ちょっと待ってください」
「何だよ」
「何で知ってるんです」
白龍がすさまじい形相で、黒ルフを撒き散らしながら迫ってくる。ジュダルは肩をすくめてははっと笑った。
「ばーか、こんなん宮中の奴ら全員知ってんだよ。まさか自分だけ秘密とか思ってたんじゃねーだろーな」
「嘘だ! あのとき他には誰もいなかったのに、いったい誰がそんな、」
「うそ」
にやっと笑い、ジュダルは白龍の頬を軽くはたく。
「嘘、なんですか」
「ああ」
「そうか、お前の虚言癖には我慢がならないほど腹が立つが、まあそれなら」
「そうだよ、全員は知らねーよ。よかったな。知ってんのは組織の奴らだけだよ」
組織は白龍の動向を常に監視していた。もちろん別に白龍のこれ以上ないくらいみっともないフラれっぷりを笑いものにするつもりで監視していたわけではない。組織が種をまいた後にその人間が黒の器としてどれほど大きく育つかは、刈り取るまで分からないからだ。それに力の有無はともかくその意志という点で、白龍はなかなかの人物ではあった。監視されていたのは、煌帝国を大きく動かしうる、要注意人物扱いを受けている証だ。
しかし当の白龍は蒼白になり、今にも倒れそうな様子でよろめいていた。
「なんつー名前だっけ……忘れちまったな。赤い髪でチビのマギの周りをびょんびょん跳んでた女だよな。おい、名前教えろよ。覚えてんだろ」
「……出て行け」
「あー? なに今さらショック受けてんだよ。こんな面白い話、紅炎とか白瑛に言わなかっただけありがたく思えよな。あのときずーっと誰かに言いたくてよお、でもそこらへんの猫に言うだけでやめといてやったんだぜ? ほら言えよ、言いふらさないでくれてありがとうございましたって」
「ふざけるな!」
白龍は金属器を手に取ろうとして、なぜか間違って筆を握ってジュダルに近づいてきた。筆の先をこっちに向けて威嚇してくる。
「怒るなよ」
「怒ってなどいない!」
「なら『それ』で何するつもりだよ?」
金属器と間違えて筆を持っていることにようやく気付いたらしく、白龍はあわてて筆を戻した。顔が真っ赤だ。
「べ、別に妙なことなど考えていない。本当は殺そうとしたんです。ただ得物を間違えただけです」
「何だよ妙なことって」
「うるさいな! もういいでしょう! さあ、もう出て行ってください。十分からかったんだから満足したはずだ」
「からかいにきたんじゃねーよ。手伝ってやろうと思ったんだよ。お前が手紙書くの」
虚をつかれたように、白龍はしばらくまじまじとジュダルの顔を見ていた。
「ろくに字も書けないくせにですか」
「うるせーよ。どうせお前、ぐだぐだくだらねーこと長々書いた挙句『あなたはやはり俺の妃になるべきだ!』とかすげー勝手な〆で終わらせる気だろ」
「出て行け」
白龍は一瞬にして顔色を変え、またしても筆を槍のように構えた。
「ほじくり返されたくらいで怒んなよ。俺がグッとくるいい文考えてやるからよ」
「余計なお世話です。だいたいあんた、そんなもの書いたことあるんですか」
「あるよ」
「だ、誰に?」
ふふん、とジュダルは笑い、「秘密」と白龍の耳元でささやいた。
「まーそれはいいからよ、さっさと書いてさっさと終わらせよーぜ。この匂い、くさくて頭痛くなんだよ」
つるつるとした箱に仕舞われた紙を取り出し、無造作に文机の上に広げる。案の定何だかわけの分からない長い手紙になっている。しかも字が丁寧できれいな分、うっとうしさが倍増していた。
「あー……もうこれ捨てろよ」
「はああああ? 何言ってんですか、嫌ですよ!」
「この手紙なげーんだよ。お前、自分のことしか書いてねーじゃん。誰が読むんだよこんなん」
ジュダルは几帳面な字で覆われた紙を投げ捨て、あくびをした。
「なっ、何てことするんだ! 言ってるでしょう、誰かに見せるものではないと! ほっといてください。お前なんかにこれを見せただけでも最大限に妥協してるんだ」
「はあ? 出さない手紙なんか手紙じゃねーよ。要するによお、お前あの筋肉モリモリ女とやりたいんだろ? だったら一言『やらせてください』ってだけ書けよ。それで十分だろ」
侮蔑と殺意のこもった視線を感じる。白龍は言葉の通じない怪物を前にしているかのような顔でため息をついた。
「何が『いい文考えてやる』だ。お前の頭の中は動物と同じだ」
「『あなたのことを考えるとどこか懐かしいような、悲しいような気分になります。一人の人間として大事なものが決定的に欠けていることに今まで気付かないでいた自分を愚かだと思、』」
「やめろ!! 本当に殺しますよ!」
「何だよこれ。これよりは『やらせてください』の方がずっとましだろ」
拾い上げた紙をいきり立つ白龍の目の前で振り、文机の上に投げる。書きかけの一文が目に入る。「あなたが俺にくれたものは、誰かにすがらないと生きていけない無力な自分でも誰かの役に立てるのだという誇りと、姉以外に誰かに初めて自分を受け入れられる喜びでした」。
「だからお前には見せたくなかったんだ。こんな複雑な気持ち、どうせお前なんかに理解できないんだから」
「めんどくせーな、いちいち大げさなんだよ。一年も経ってこんなんうじうじ書いてるくらいなら直接行って言えよ」
「さっきから言ってるだろう、ただ心の整理をつけるためだって! それなのにあんたが勝手に踏み込んできたんじゃないか」
白龍は自分の腕に爪を立て、必死に呼吸を整えている。部屋の中はしんとしているが、外でピイピイとのんきに小鳥の鳴く声がし、春らしい埃っぽい風が窓から入ってくる。風はわざとらしい沈香の匂いをかき回し、ジュダルの髪や机に置いた手紙を揺らしながら香りを外に追いやっていった。
「全部知っているなら、それだって分かっているんじゃないのか。俺の方もお前に今さら隠すことなんかない。もう終わったんだ、何もかもが」
「あーもー、それが大げさなんだようっとうしい。しかもフラれたのが一年前のちょうどこの日、とかそういうアレなんだろ。気持ちわりーな」
「そこまで知ってるんですか」
「知らねーよ。カンだよ。ははっ、やっぱりか。お前やりそうだもんな、そういうねちっこいこと」
ジュダルは白龍の肩を叩き、腹を抱えて笑った。当然白龍は面白くなさそうな顔をして唇を尖らせている。
「ねちっこくて悪かったな。終わったけれど、彼女は特別な人だったんだ。ほっといてください」
「あー、まーた大げさなこと言ってんな」
頭を両手で挟み、思い切り額をぶつける。こつん、なんていうかわいい音ではなく、がつっという、まるで石と石がぶつかったような音がして、白龍は後ろによろけた。
「し、神官殿」
「いいから何度でもフラれてこいよ。最終的には『すみません、生理的に無理です』とか言われて絶望して、ついでに堕転しかけろよ」
「……結局それが狙いか」
「そうだよ。そしたらお前の情けない泣き顔、指差して笑ってやるよ。思いっきりな。そのために俺がいるんだろ」
頭を解放し、白龍の鼻をぎゅうとつまむ。痛い、と抗議されたがジュダルは笑って相手にしなかった。
「分かったらほら、寄越せよ。どこにいるか知らねーけどじゅうたんで届けに行ってやるからよ。大サービスだぜ? 感謝しろよな」
「いいんだ」
笑い声のような、嗚咽のような、軽く息を漏らす音が聞こえた。白龍は鼻の下を擦り、どこか遠い目で文机の上にある手紙を眺めた。
「もういいんだ。本当にもういいんだ。今となってみれば、どれだけ勝手な気持ちを彼女に押し付けていたのか分かるから」
「へー、まるで成長したみたいな言い方だな」
「ジュダル」
「何だよ」
白龍はくるりと背を向け、ありがとう、とささやいた。その声はジュダルに聞かれたくないのかと思うくらいに小さく、わずかに空気を振動させただけだったが、ジュダルの耳にはなぜかしっかり届いた。白龍のルフはうるさくざわめいていて、心の中の様子をあからさまに映し出していた。隠しているつもりでも。ジュダルは浮き立つルフを指の背に乗せ、沈香の香りがする手紙を破いて火鉢に放り込んでいる白龍の背中を眺めていた。煤が飛び散り、焦げくさい匂いが沈香を消し去っていく。
「ったくよお、何も焼くことねーだろ」
行動がいちいち大げさな奴だ。白龍は無言で紙が燃え尽きる様子を見つめていたが、やがて振り返ってまたため息をついた。
「また書くから、いいんです。今度は感謝の手紙を直接彼女に渡したい」
「ふーん、感謝ねえ。素直に『やらせてください』って書けばいいのによ」
「そういうことを言わないでください! もう指図しないでいただきたい。神官殿に宛てた手紙じゃないんだ。そもそもあんたに手紙を書くことなんて金輪際ありませんが」
「何言ってんだよ。毎日恥ずかしいことばっか書いてるだろ。もっとそばにいろとか見捨てるなとか置いてくなとかやりたいとか」
「は、はあ……? そんなもの書くわけないでしょう! いったい誰が、そんな、」
白龍はいぶかしそうな顔で、ジュダルの次の言葉を待っている。ジュダルはにやにやしながら指の背に乗せたルフを飛び立たせた。ルフはピイピイ泣いて、白龍の周りで踊っているルフに混じる。
「お前のルフ、手紙みたいなもんだろ。ルフは嘘もつけねーし隠せねーからな」
「そ、そんな、反則じゃないですか、ルフを見るなんて!」
「別に見ようとして見てるわけじゃねーよ。見えるんだよ。仕方ねーだろ、マギなんだから」
うう、と恥ずかしそうにうつむき、白龍は片手で顔を覆った。
「言っとくけど顔隠しても無駄だからな」
「隠そうなんて思ってない。ただ、ひとつ質問が」
赤く染まった頬を手の甲で擦りながら、白龍は恐る恐るジュダルの顔に視線を移した。何かを探るような目だ。
「ルフは、魔道士なら誰でも見えるんですか」
「まあだいたいはな」
「魔導士でない者が、後から魔導士になることはできるのか」
「さあ? 知らないけどたぶんできねーよ」
ジュダルは首をひねる。もしかしたらなれるかもしれないが、化け物扱いされる魔導士なんかにわざわざなりたい者など見たことがないから、考えたこともなかった。
「やはりそうですか」
「何でそんなこと聞くんだよ」
「俺にも、見えたら届くのに思って」
「何が」
白龍はジュダルの周りの空気にそっと手を伸ばし、ぎこちなく笑った。その笑顔は子供っぽくて、けれどさっきより少しだけ大人の顔だった。白龍のルフはそろってジュダルに微笑みかけ、懐かしそうにまとわりついていくる。
「手紙ですよ。あなたからの、ルフの手紙」