白龍が消えた。消えた、というのは少し語弊があるが、とにかく白龍は今朝、この禁城からいなくなった。しかも誰にも告げず、誰にも姿を見られずに消えた。部屋付きの女官も白瑛も白龍を最後に見たのは今日の早朝だ。気づいたときにはすでに午後を回っていた。
 昨日から今日にかけては立夏の祭があり、即位したばかりの皇帝が官をひきいて南郊へ行幸したから宮中には人が少なかったのだが、だからといってたかだか十余歳の子どもが誰にも知られずに警備が厳重な禁城から逃げ出せるわけはない。そもそもあの泣き虫の白龍にそんな勇気はあるまい。誰かに連れ出されたのだ。
 その可能性を舎人から告げられたとき、白瑛は傍目にも分かるほどに錯乱した。父と兄二人を失ったばかりなのに今度は弟だ。しかし暗殺の首謀者である旧敵国の貴族たちは捕えられ新皇帝の命によってもっとも残忍な方法で刑殺されたから、別の人間が白龍をさらうか殺すかしたのだろう。また奪われるのかと白瑛は目の前が真っ暗になったに違いない。あれ以来ふさぎ込んでいた弟のために努めて明るく振る舞っていた反動もあってか、白瑛はその場で指示を出したり走り出したりすることができずにただ泣き崩れた。
 ジュダルはそれを遠くから見ていた。組織の男たちに囲まれていて何もできない状態ではあったが、もし仮にまったくの自由でも別に何もしなかっただろう。白瑛が何をそんなに悲しがっているのかも分からないし、そもそもそんな発想すら沸いてこない。ジュダルとはそういう生き物だ。
 舎人と青舜があわてて白瑛を抱きかかえ、そばにいる衛兵たちに何事かを指示するのをジュダルは黙って見ていた。背後では皆同じ覆面をしている男たちがひそひそと話し合っている。いったい誰が皇子に手を出したのだ、そんな命令もしていないのに、と言っている男がいて、思わず目線でそれを聞きとがめた。
 マギとはいってもしょせん子どもだし口を滑らせるかもしれないから、とでも思っているのか、ジュダルはそこらへんの事情をあまり聞かされていない。とはいえだいたい察しはついている。玉艶を正夫人として迎えた後は政治を放棄しほとんど後宮から出てこず玉艶の言うとおりにしか動かない皇帝を見れば一目瞭然だ。白瑛以外の皇族たちだってだいたい分かっているだろう。それでも「せっかくいい感じに強い皇帝だったのになんてもったいないことすんだよ」くらいにしか個人的には思わないジュダルだ。
「お前らじゃねーの?」
 ジュダルが目を向けた先の男に向かってぼそっとつぶやくと、男は肩をすくめて頭を下げた。慇懃なのかなんなのか分からない態度だ。
「何のことですか、『マギ』よ」
「あの泣き虫のガキ殺したの、お前らじゃねーのって聞いてんだよ」
「もちろんです。それが何か」
「ふーん? ならやばいんじゃねーの?」
 ジュダルはその男だけでなく、ぐるりと視線を巡らせて自分を取り囲んでいるすべての男たちにそう言った。
「俺たちの知らねえ奴らがこの国に入り込んでるってことだろ、それって、」
「ジュダルよ」
 物心つかないうちからジュダルのそばにいる、地位の高いらしい男が一歩進み出てきて片手を上げた。
「何だよ」
「そのような些末なことは我々に任せておけばよいのだ。お前は『マギ』なのだ。ただ好きなことをすればい。思うがままに。お前を止めることは誰にもできぬのだから」
 うん、とジュダルは頷き、男たちの集団を離れる。そして、好きなことねえ、と小さくつぶやく。組織の人間たちはジュダルが幼い頃から呪文のようにそう言い続けてきた。ジュダル、好きなことだけやればいい。お前はマギだ。神の化身のごとき存在だ。そんなお前のやることを、いったい誰が咎めることができようか。
 ジュダルは大あくびをし、皆が号令をかけながらどたどたと走り回っている庭園から離れて魔法で屋根に飛び上がった。まだ浮遊魔法は完璧に使えないから失敗することもあるのだが、今度ばかりは上手くいった。
 瓦屋根の上に立ち上がり、屋根づたいに宮を渡り歩く。下からは白龍を探す人々の声が響いてくる。白瑛はもう泣いてはいないらしく、あの悲鳴のような声はどこからも聞こえない。あの弱そうな泣き虫が見つかろうと見つかるまいと、ジュダルにはあまり関係のないことだ。せっかく玉艶が残しておいたきょうだいの片割れがいなくなってはどちらかを堕転させて黒の器にする計画は上手くいかなくなるが、白瑛も白龍も堕転したってものすごく強くなりそうな感じには見えない。特に白龍はだめだ。魔力の量は確かに多いが、あんなに弱虫では大した王にはならない。迷宮に連れていったってわあわあ泣いているだけで終わるだろう。やっぱり白龍を殺して強かった前皇帝か一番上の兄の方を残しておくべきだったのではないかと思うジュダルだ。
 両手を広げて鳥のようにはばたく真似をしだいぶ離れたところにある屋根に着地したとき、叫び声のような、くぐもった音が聞こえた。何か重いものが落ちたかのような鈍い衝撃音も遅れて聞こえる。ジュダルは足を止め、屋根から身を乗り出してみた。ジュダルが今いるところは厨房のある建物であるらしく、眼下にはあまり手入れの行き届いていない狭い庭が広がっている。厨房の裏手に当たる場所なので大きな井戸がある。しかし誰もおらず、辺りはしいんとしている。首をかしげてその場を立ち去ってしまおうとするとまたしても鈍い音が聞こえた。うー、という甲高い叫びも一緒だ。ジュダルは浮遊魔法でそっと地面に降り立ち、声のぬしを探し始めた。
 ここ禁城には幽霊が出るらしい。女官たちがよく噂しているところによると、いくさで討たれたかつての敵国の将兵、罪人に仕立て上げられ残酷な方法で殺された現皇帝の夫人や妾たちが禁城をうろついているという。後宮の女たちはそれに悩まされており果ては自殺者が出たとか出ないとか、よく分からないがとにかく結構派手に活動している幽霊がたくさんいるらしい。死者の魂をルフに形作らせることなどマギであるジュダルにだってできないのだからまあ嘘なのだろうが、もし本当に幽霊がいるとしたら見てみたい。死んだのにルフに還りたがらない人間とちょっと話してみたい。
 わくわくしながら音を辿っていくと、建物と建物の間の、暗い通路に出た。土は湿っていて、雑草が生え放題で、あまりいい雰囲気のところではない。もっと人がいるところに出てくりゃいいのに、とジュダルはつぶやき、狭い通路に足を踏み入れる。その途端、がくん、と体が傾いた。踏み出した足が虚空に取られている。そこにあるべきはずの地面がなく、ジュダルはバランスを崩して落ちかけた。が、とっさに浮遊魔法を使ったおかげで落ちずには済んだ。一歩戻ってよく調べてみると、雑草に隠れてよく見えなかったが穴が開いていた。相当に深く、のぞき込んでも底が見えない。あぶねーな、と口を尖らせ、壁沿いに歩いて穴を通過しようとした、ときだった。
 ううう、という声が穴の中から聞こえた。女のように甲高い声だった。幽霊だ、とジュダルは思い、どきどきしながらもう一度穴の中をのぞき、耳をそばだててみる。声だけでなく衣擦れや荒い息遣いも聞こえる。間違いない。ジュダルは顔を輝かせて「おーい」と声をかけてみた。穴の中なんかにいないで姿を現すべきだ。しかし返ってきた答えは恐ろしげな声でも気安い返事でもなく、おびえたような空気だけだった。
「おい、出てこいよお。つまんねーだろそんなとこにいたって。もしかして出られねーの?」
「いったい誰、ですか」
 今度ははっきりとした言葉が返ってくる。やたらとかすれて弱々しい声だが、これは幽霊などではない。れっきとした人間だ。ジュダルはにやりと笑い、穴の中の「幽霊」に向かって「だーれだ」と言った。
「当てられたら出るの手伝ってやるぜ」
 穴の奥からは息をのむ気配が伝わってくる。気まぐれで持ち出した駆け引きを素直に受け取っておびえているのだろう。
「わ、分からない、と言ったら、俺はどうなるのですか?」
「うーんそーだな、土かけて埋めちまおうかなあ」
「そんな!」
 絶望に塗りつぶされた叫びが穴の中に響く。ジュダルはひひひ、と笑いながら穴のふちに手をかけた。幽霊の正体をに見当がついたからだ。弱くてすぐ泣いておもしろくもない奴、と思っていたが、今はわりとおもしろい状況になっている。
「大体よお、何で穴なんかに落ちてんだよ。何でピーピー泣いて助け呼ばねーの? 得意だろ、そういうの」
「落ちたのは考え事をしていたからで……いや、ちょっと、黙ってください。あの、」
 幽霊は悔しそうな、というよりはふてくされた声でジュダルの言葉を遮る。
「あなたは俺のことを知っているのか。いったい誰なんです」
「いいから当ててみろって」
 そう答えると黙り込む。大して興味もなかったからこいつと言葉を交わしたことはほとんどないが、それでも気付きそうなものだ。礼儀作法ばかりにうるさいお上品な宮廷で、こんな口のききかたをする人間はほとんどいないのだろうから。ジュダルは組織によって大事に育てられてきたが、行儀のよいいわゆる「いい子」でいろと言われたことはなかった。窮屈な服を着せられても脱ぎたいと言えば脱いでもよかったし、気に入らない奴は殺してもよかった。皇子様にはよく分からない世界だろう。
「おーい、黙んなよ。出してやんねーぞ」
「結構です」
 幼いかたくなさで塗り固められた声が返ってくる。ジュダルは驚いて穴の奥に目を凝らした。こいつはちょっと脅せばすぐ泣いて許しを請うたり誰かに助けを求めたりするような奴だったはずだ。父や兄が死んで少しはましになったのか。
「俺は一人で出てみせる。誰だか知りませんが助けは不要です」
「ふーん、別にいいけど、夜まで帰ってこなかったらお前死んだことにされんぞ」
「ええ!?」
「誰かにさらわれたって思われてんだよ。お前弱っちいし、さらわれたらすぐ殺されそうだし生きててもなんか利用されそうだろ。そんでよく分かんねーけど夜まで見つかんなかったらなんだっけ、けーしょーけんとかいうやつを取り上げて葬式すんだってよ」
 ううう、という絶望のうめきが聞こえた。ついに泣くか、と思ったが、泣き声はついに聞こえなかった。
「俺は、皇子でいなければならないんだ。どんなにみっともなくても、使命を果たすには皇族という力を持っていなければ」
「はああ?」
 こいつこんなこと言うような奴だったっけ、とジュダルは思った。肉親というもののありがたさを知らないジュダルにはよく分からない世界だが、あの弱虫を短期間でこうまで変えてしまうのだから父や兄たちの死というのはこいつにとっては大した事件だったのだろう。
「まーいいや。死にたくなきゃ早く登ってこいよ。皇子だろうと何だろうとこのままずーっと穴ん中だったら腹減って死ぬぜお前」
「分かっています! やってます! さっきからずっと登ろうとしているのにできないんですよ! ほっといてください!」
 激しくもがく音がする。穴は狭くて深いらしい。もしかしたらこの穴は昔、井戸として使われていたのかもしれない。
「一人じゃ出られねーんだろ。ほら俺が誰なのか当ててみろって、手伝ってやっからよー」
「よけいなお世話だ!」
 からからと石が落ちるのと同時に痛そうなうめきが聞こえた。もしかしたら落ちたときにけがをしたのかもしれない。よく泣かないな、と思う。少し前は膝をすりむいたくらいで泣いて母親のもとに飛び込んできていた奴なのにだ。しかしけがをした子供が登り切れるような深さの穴ではないことは、ジュダルにだって分かる。無駄な努力だ。
「お前さあ、弱いうえに頭も悪いのかよ」
 笑いはせず、ジュダルはため息をつきながらそう言う。
「今夕方なんだぜ? 白瑛はお前がさらわれたと思ってっから外に探しに行ってるし、誰もここにお前を探しにこねーんだよ。しかもお前は自力じゃ上がれねえ。俺だってもう帰りてーしよー。自分がどうすりゃいいのか、少しは頭使って考えろ、弱虫」
 何かを考え込んでいるかのような沈黙が漂ってきた。助けてやろうとしてるのに何でこっちが説得しなきゃならないのかさっぱり分からない。ジュダルは面倒だと思うとすぐに何でも投げ出すたちだが、なぜかここを動く気にはなれなかった。何が何でもこいつを助けたいわけではない。そうしたければこんな面倒な押し問答などせず、白瑛に居場所を知らせに行けば終わりのはずだ。なのにそうはしたくなかった。そうしたら、何だか、もったいないという気がした。そうだ。もったいない。
「分かりました」
 悔しさを押し殺した声で、穴は言った。
「確かに意地を張っている場合ではない。見つけてもらったことには感謝しなければならない」
「まだ助けるって決まったわけじゃねーんだけど」
「分かっている。お前が誰だか当てなければならないのだろう。そんなこと、分かっている」
 悔しくて混乱して怖くて泣きたいのにそれを必死でこらえているのが分かる。やっぱりガキだなーと思う反面、こうまで言われても泣き出さないことに感心していた。確かこの弱虫は自分より年下なのではなかったか。小さいし。
「ヒントやろーか? どうせ見当もつかねーんだろ」
「結構です。もう分かった」
「マジかよ?」
 ジュダルは少し驚いて穴の中に身を乗り出す。意外だ。あんなヘタレなガキのくせに。
「なら言ってみろよ、俺の名前」
 穴はまたしても息をのんで黙り込み、子供らしく大きく息を吸った後に、ふてくされたようにジュダルの名を告げた。
「へー? すげーじゃんお前、何で分かったんだよ?」
「約束だ。ここから出していただきたい」
 はいはい、と答え、ジュダルは浮遊魔法で穴の中のものを宙に浮かせた。うわあ、という声がし、汚れた子供と土と枯れ葉が夕焼けの光に照らされている。子供は半泣きになっていて、浮いている手足をばたばたと動かしていた。しかしずっと浮かせていると疲れるので広い場所に移動させてから地面に放り出し、自分も座り込む。大して重くもないのに、立っていられないほど疲れた。
「それにしてもよお、俺だってことよく分かったなー。甘ったれた泣き虫のガキのくせによー」
「うるさい! そんな耳障りな声をしているせいじゃないか!」
 震えながら地面にうずくまっている白龍はどこもかしこも泥だらけでまるでボロ雑巾みたいなありさまだ。こいつはいつだって助けを待っていて、みなに助けられるのが当たり前みたいな顔で生きていたはずだった。それなのにいっぱしに屈辱を感じて泣いているらしい。
「また泣いてんのかよ。やっぱ泣き虫だな」
「黙れ! お前はあの女の道具じゃないか。そんな奴に、そんな奴に俺は」
 小さな体をますます小さく丸め、白龍は激しく泣き始めた。白龍の丸まった背中を眺めていると心がざわざわする。誰からも見放され、誰にも見つけてもらえず、暗くて狭くて深い穴の中で必死でもがき続けていた半日はたぶんひとりぼっちであがき続けている現実そのものだったろうから。
「お前さあ……」
 お前は好きなことをやっていればいい、そんな難しいことは我々に任せておけばいい、といつも言われる言葉を何となく思い出す。ジュダルはそれを不満に思ったことはない。しかし好きなように振る舞っていいと言われれば言われるほど世界が狭くなったような気がするし、いくら暴れても満たされなくなった。体が成長するにつれて振るえる力も大きくなり、もう自分では上手くコントロールできないことだってある。しかし組織の男たちは判で押したように同じことしか言わないから、ジュダルは暴れるしかない。他に楽しいと思うことも、したいと思うこともない。ジュダルはまだ何一つ自分で選ぶということをしたことがない。世界はこんなに広いのに、ジュダルにとっては穴と同じだ。自分がそんな穴にいることを知らず、ひとりぼっちであることも知らず、必死でもがいている。
 しかしそんなことは意識の表面にすら上ってなかった。ただもやもやとしただけだ。ジュダルはそれ以上何も言えずに、ただぼんやりと白龍の悲鳴のような泣き声を聞いていた。それは白瑛の泣き声にとてもよく似ていて、やはりきょうだいなのだと思わせた。
 目を閉じ、まぶたの裏にできた暗い穴の中に手を伸ばしてみる。手を伸ばすということは、もしかしたら選ぶということなのかもしれない。誰にも振り回されず、自分の意志によって。そのとききっと世界は広くなるに違いない。もうひとりぼっちでがむしゃらにもがかなくてもいい。何も見えないと泣くことだってない。
 ジュダルは目を開け、にやりと笑う。弱虫で泣き虫な子供はすでに泣きやんで、膝を抱えて悔しそうに唇を噛んでいた。お前も選べばいいんだ、とジュダルは思う。そしたらお前もこの穴から抜け出せる。それを想像すると少しだけ面白くなって、ジュダルはひひひと笑う。

2012.10.26
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