いつも見かける屋根の上に、黒い猫が香箱を作って眠っていた。尻尾だけがだらんと垂れ下がり、黒いつららのようになっている。白龍はそれを見たときぎょっとしたが、すぐに猫だと分かってため息をついた。何となく懐かしい気分になって黒い毛並みを眺める。父はあの小さくてあたたかい生き物を愛していたが叔父はそうでもないので、禁城で猫の姿を見ることがあまりなくなってしまったからだ。
見ているうちに、ジュダルはどうしたのだろう、とふと思った。午後のこの時間はだいたいあの屋根に寝そべってだらだらしているか、気が向けば通りかかった誰かにちょっかいをかけに降りてくる。国外へ出るなんてことも聞いていない。風邪でも引いたか、と白龍は思った。
昨夜、ジュダルを外で見かけた。たまたま眠れなくて外へ出ていた白龍は屋根の上であぐらをかいて月を見上げているジュダルの姿をたまたま目にしてしまった。月はどこか落ち着かない気分にさせるほど美しく、月光に照らされたジュダルの表情からは不思議な郷愁を感じさせた。どこかへ帰りたいのだろうか。ジュダルの故郷の話など聞いたこともないし聞きたくもないが、その表情のことだけは心に引っかかった。しかし飽きもせずぼんやり月を見上げるジュダルをそのままにして白龍は自室へ帰った。幼い頃母に、「ずっと月を見ていると動物になってしまう、だから早く寝なさい」と言われたことを思い出した、からではない。あんな男に声なんかかけたくなかったのだ。ただそれだけのことだった。
まさか、と思わずつぶやいた。不吉な考えが頭によぎる。今黒猫がいるのは昨夜ジュダルがいた屋根の、まさにあの場所だ。心がざわざわする。もしやジュダルは、月を見すぎて猫に変わってしまったのではないか。
白龍は駆け出し、尻尾がだらんと下がっている屋根の真下にたどり着いた。黒くて太い尻尾はどことなくジュダルの髪を思わせる。他の色がいっさい混じっていない真っ黒な毛並みもそうだ。どうにかして手がかけられそうなとっかかりを探しだし、白龍は必死に屋根によじ登った。瓦を踏み抜かないように慎重に屋根を這っていき、猫の近くまで来た。猫は白龍が来たことなどには気付かずに図太くうたた寝を続けている。
眠る猫の横顔は、やはりジュダルに似ているような気がした。しかしジュダルが猫になってしまったからっていったい何だというのだ。むしろ都合がいいじゃないか。猫の魔法使いなんて聞いたこともないし、もうマギとしてどうこうできる以前に魔法を使うすらできまい。そうしたら組織としても強力な手駒がひとつ減ることになるのだからこっちが有利になる。うん、とひとり頷いて白龍は屋根の上に正座し、膝の上で拳を握りしめた。
「俺の勝ちだ、神官殿」
猫はひげをぴくぴく動かしながらもまだ起きようとはしない。
「お前がマギでなくなったことに悲しむ者はあっても、いなくなって悲しむ者はきっといない。だから、無念に思うことはない。猫として生きていけばいいんだ。きっとその方が幸せだ」
白龍は唇を噛み、猫の鼻にそっと手の甲を寄せた。あたたかで濡れていて、細く速く呼吸をしているのが分かる。父が猫を愛していた理由はよく分からないが、こんな害のない生き物ならそばに置いてもいいと思う。動物は決して裏切らないし、自分を陥れようともしないだろう。しかし手の甲をそのまま鼻に当て、のどをくすぐってやろうとすると、猫は急に豹変した。突然起きあがって噛みついてきたのだ。
「な、何をする!」
幸いすぐに離してくれたので手を引っ込め、白龍は猫から距離を取る。なぜ油断したんだ、と自分に言い聞かせる。猫とはいえ、こいつはジュダルなのだ。気を抜いてはいけない。
「やはりマギでなくなったことが悔しいのか? 猫になってまで俺を陥れ、この国を魔に引きずり込むつもりなら覚悟してもらう」
槍を持っていないので護身用の短刀を抜き、ぎこちなく構えた。こんな小さな動物にこんなことをするのは忍びないが、こいつがジュダルだというなら少なくとも捕らえてどこか遠くへ放るくらいのことはしなければならない。
噛まれたところをちらりと確認すると、特に血が出てもいないし歯形もついていないことに驚いた。わりと痛かったのに。
「何の妖術だ、これは」
白龍は猫に噛まれたことがない。父はあまり笑顔を見せない厳しい人だったが、そばにいた猫たちが父に噛みついているところを見たことだってない。だいたい何もしてないのに自分が噛まれるほど嫌われるわけがないのだ。しかも黒猫は白龍がそばを離れたことに満足したのか、またしても丸くなって目を閉じた。なんて気まぐれな奴だ、と白龍はつぶやいた。やはりこいつはジュダルだ。間違いない。
「聞いておられるのでしょう神官殿。今なら放逐するだけで済ませてあげましょう。どこかで生き延びることも許します。さあこっちへ来るんだ」
刺激しないように短刀を仕舞い、ゆっくりと立ち上がる。しかしジュダルは聞こえているのかいないのか、尻尾をぴくりと動かすだけで反応しなかった。
「返答を。もしもう言葉も喋れず、魔法が使えないというのだったらどこぞで保護してもいい。このことは誰にも言いません。どうされるか、一刻も早く決められよ」
尻尾が神経質そうにばたばたと動いた。うるさい、とでも言いたげだ。ジュダルでもいらつくことがあるのか、と白龍は少し不思議に思った。
「神官殿、いや、ジュダル。そんな姿になってしまってはもう企みも何もないだろう。お前には何もできないのだ。だが俺は同情はしない」
猫として生きていかなければならないならそれでもいいような気がしてくる。特に何も考えず、誰かを恨みに思うこともなく、ただあたかな膝と食べ物のことだけ思っていればいいのだ。幸せじゃないか、と白龍は思う。
「何なら、俺のところに来ればいい。何もかもなくしてしまったなら……もうお前は俺の敵じゃない」
白龍はそっと足を踏み出し、一歩だけ近づいた。ジュダルは相変わらず目を閉じている。手を伸ばして額に触れようとしたとき、「白龍!」という悲痛な叫びが下から聞こえた。姉だ。
「姉上? どうなされたのですか」
「あなたこそどうしたというのです、そんなところに上がって! まるで神官殿のようなことを」
ぎくりとして猫の方を見る。ジュダルが猫になってしまったことが宮中に知れたら大変だ。白龍はいやがる猫を無理に懐の中に入れて屋根から降り、姉の前に立った。たったそれだけの間に引っかかれて噛みつかれて傷だらけだ。
「姉上、ジュダ……でなくて神官殿のことでお話が。大変なことが起きました」
「神官殿?」
「そうです。これはくれぐれも内密にしていただきたいのですが、実は神官殿はここなのです」
縦横無尽に姿を変える懐から黒い尻尾が飛び出した。猫はどうにかして出ようともがいている。姉は驚いて言葉も出ないらしかった。
「驚かれるのも無理はない。俺も目を疑いました。ですが……神官殿が月を見すぎたせいでこんなことに……」
「何を言っているのです、白龍。月?」
白瑛は驚いているというよりは呆れている、といった感じで首を傾げた。
「このことが宮中に知れ渡ると混乱が起きます。しばらくの間神官殿は俺が匿って、」
「白龍」
姉はまじめな顔で白龍の背後を指差した。
「神官殿ならそこですよ」
振り向いた隙に襟を押さえていた手が緩んだらしく、黒猫は一目散に逃げていく。白龍が自分の肩越しに見たのは、他ならぬジュダルだ。もちろん人間の。
「白龍、熱があるのではないの? あなたこそ月を見すぎたのでしょう。風邪をひきやすいのだから、夜更かしをしてはいけませんよ」
白龍はジュダルから目が離せない。ジュダルはきょとんとした顔で白龍と白瑛を見つめている。
「あの」
舌がもつれる。顔から血の気が引く。ジュダルの視線が痛い。笑い出す寸前独特の緊張感が痛いほど漂ってくる。姉とジュダルに挟まれるような形になっていた白龍は、とるものもとりあえず逃げ出した。全速力で、ジュダルにつかまらないところまで。
しかしそんな甘い考えはジュダルには通用しなかった。走っている白龍の耳元でわざとらしい「にゃーん」という鳴きまねが聞こえ、後ろから羽交い締めにされる。ジュダルは嫌がって暴れる白龍を無理矢理じゅうたんに乗せ、逃げられないようにか高いところに上ってさんざんからかった後じゅうたんから白龍をけ落とすように放り出して言いふらしに行った。そして暴れすぎてボロボロになった白龍のところにさっきの黒猫が現れる。猫は白龍をじっと見つめた後、額を舐めて耳元で「にゃーん」と無邪気っぽく鳴いた。猫なんか大嫌いだ、と白龍は吐き捨てるようにつぶやき、手の甲で額を拭いた。触ると少し熱かった。ジュダルが猫だったらよかったのにと思うなんて、やはり熱があるのかもしれない。