幼い頃から年に五度は高熱を出して寝込み、ありし日の母や姉に「この子はちゃんと育つのかしら」と心配されてきた白龍は、ちょうど季節の変る早春の寒い夕暮れ、いつものように寝台に横になって発熱に耐えていた。あまりによく熱を出すので兄たちが「白龍は虚弱にすぎる」と呆れ、雪の降りしきる中外に連れ出されて槍を振らされたこともあったが、昔からだいたいは甘やかされてあたたかくされて眠らされていた。熱が高くなると涙が止まらなくなり、ははうえ、ははうえ、とうわごとのようにつぶやいていたそうだが、十六を過ぎた今もちろんそんなことはしていない、つもりだった。
 一人きりのはずの閨房にやかましい笑い声が響いているのが聞こえて目を開けた。聴覚がおかしくなっているのか、音がやけに耳障りだ。女官だったら一言文句を言ってやらねばならない。しかし上手く声が出ず、寝台から起き上がろうとしても体に力が入らない。笑い声のあるじは白龍が目を覚ましたことに気付いたらしく、音もなく近寄ってきた。
「なーんだ、もう終わりかよ」
 不思議なシルエットの黒い髪が目に入ったとたん、白龍は鼻から酢を飲まされた気分になった。ジュダルだ。ジュダルはどこにでも飼い猫のようにするりと入ってきてプライバシーをめちゃくちゃにかき乱して帰っていく。それは白龍に限ったことではなく、王候補として気に入っていれば男でも女でも身分がどれほどのものでも関係なくちょっかいをかけてくるのだ。
「出て行って、ください」
 それだけを言うのが精一杯だった。迷宮へ行け、とっとと強くなれ、とうるさくつきまとってくるジュダルなどに構っている余裕がない。
「やだよ。おもしれーんだもんお前。早くまた眠れよ」
 なぜかジュダルは白龍を目を爛々と輝かせて覗き込んでいた。新しい玩具を見つけた子どものようだ。
「神官殿がうるさいから起きたんです。早く、外に出て、」
 しゃべっていると疲れる。白龍は枕に顔を埋め、腕をだらりと下ろした。
「まあ別にいいけどよー、お前、今度シンドリアに行くんだろ」
「それが、どうしました」
「ぶっ倒れねーようにしろよ。シンドリアに白瑛はいねーんだぞ」
「はあ……?」
 熱のせいで狭まった視力でも、ジュダルが最大限に笑いをこらえているのが分かる。何が言いたいのだ、と腹立たしくなり、力を振り絞って枕から顔を上げる。
「『あねうえーあねうえー』」
 苦しそうな白龍の声色を真似て、ジュダルはそうつぶやいた。
「って、恥ずかしいから外でやるのはやめとけよ」
「う、嘘をつくな! そんなこと言ってない!」
「うるせーな、元気じゃねーかよお前……」
 ジュダルは耳をふさいで嫌な顔をし、舌打ちをする。
「嫌がらせのおつもりか!? 出て行ってください今すぐに!」
「ならせいぜい恥かいてこいよ。じゃあな」
 まるで浮いてでもいるような足取りで出て行こうとしていたジュダルは、急に振り返って何かの包みを寝台に投げつけてきた。
「飲んどけよそれ」
「何ですかこれは」
「さあ? 紅明にもらったんだよ。よわっちい奴が強くなるんだってよ。黒こげになったトカゲが入ってるらしーぜ。よく知らねーけど」
 そんな怪しげなものを、と忌々しく思ったがとりあえず出て行ってほしかったので白龍はそれを口に出したりはしなかった。
「わざわざこれを届けにこられたのか」
「いや? ぶっ倒れたときのお前おもしれーから見にきただけ」
 白龍の顔を見てジュダルはぶしつけに噴き出し、立っていられないとでも言うように膝から崩れ落ちて思い出し大爆笑を始めた。
「なっ、何を笑っておられる!」
「だってよ、お前ガキんときからなんも変わってねーんだもん」
 布団を引き上げて顔を隠して熱と屈辱のために震えながら、白龍は復讐を誓った。しかし起き上がれるようになったのはその五日後のことで、ジュダルはほとんど毎日寝所に訪れてはその都度爆笑して帰っていった。




 命をおびやかすような復讐は何年か後にまとめてやるとして、とりあえずは笑われた仕返しをしようと思った。風邪が蔓延していることだしジュダルにも風邪をひかせて高熱を出させ、逆に指差して笑ってやれるような方向へ仕向けようとしたが、あんな寒そうな格好をしているのにジュダルはまったく風邪をひかない。幼い頃から知っているのだからよくよく考えれば分かったはずなのだが、白龍は七日ほどの間ほとんどストーカーのようにこっそりとジュダルをつけ回し、水まきをしている場所へそれとなく誘導して水をかぶるようにしたり、白龍より少し遅れて寝込んでいる紅玉の寝所へ行かせて感染させようとしたりしたが、効き目は全然なかった。何であんなに元気なんだ、と怒りをこめてつぶやき、白龍は拳を握り締める。
 別に甘ったれなところを笑われるくらいのことは慣れているし、大げさに怒るようなことでもないのだが、相手がジュダルだと思うとどうにも我慢がならない。シンドリアへ向けて発つ前に何とか一泡吹かせてやりたい。帰ってくる頃には白龍は力を手に入れて宮中を引っ掻き回してジュダルなどさっさと追い出せるくらいの人物になっている予定だし、そんな子どもじみた仕返しなどしている暇はないだろうから。
 ストーカー行為の成果あってか、つけ回し始めてから七日目の昼、ジュダルがくしゃみをしているところを見た。勝った、と白龍は思った。白龍も最初はくしゃみから始まった気がする。くしゃみののちに寒気→発熱→うなされ、といった具合にいくはずだ。だがくしゃみ程度ですっかり復讐を遂げた気になっている自分に喝をいれ、白龍はその夜、ジュダルをはじめとした組織の人間たちにあてがわれている宮に足を踏み入れた。
 ここに入るのは初めてのことだった。皇后であり組織の重要人物であるかつての母が足繁く訪れていて顔を合わせたくないから近寄りたくなかったのもあるし、何よりけがらわしくて入りたくない。白龍は大事ないくさの前のように(いくさなどしたことはないが)斎戒沐浴をし、心を強く持てるよう両手で自分の頬を叩いた。こんなくだらない仕返しで失敗をしていたら数年後に起こす予定の戦争、そして本物の復讐が上手くいくわけがない。こういう諜報的なことにも慣れておかねば。よし、と声に出さずにつぶやき、ささっと宮の中に入っていった。
 内部は他の殿と変らないように見えなくもないがやはりまがまがしく、この目で見たことはないもののまるで迷宮の中のように得体が知れない感じがした。何しろ魔のすみかなのだ。何が出てきてもおかしくない。勝手に盛り上がっていく白龍の気持ちとはうらはらに、空気はひんやりと冷たい。宮と名がついているとはいえそんなに大きくはないからジュダルの私室と思われる部屋はすぐに見つかった。そっと扉を開け、中に足を踏み入れる。
 中は暗かった。蝋燭の明かりさえなかった。差し込んでくる月明かりを頼りに恐る恐る見回してみると質素を極める白龍の房より簡素で、ほとんどものは置かれていなかった。椅子や窓に装飾もなく、およそ人が住んでいるところとは思えなかった。そのがらんどうに冷たい風が吹き込んできて立て付けのわるい扉がかたかたと鳴り、白龍の髪をも揺らした。さみしい部屋だ、とは思わなかった。不思議とジュダルに似合いの場所だという気がした。
 室内に衣擦れの音が響き、白龍は身を固くする。よくは見えないがおそらく寝台に寝かされているジュダルが寝返りを打ったのだろう。高熱にうなされて妙なことをつぶやくのを聞いて笑ってやるのが目的なのだから起こす必要はない。白龍は何度か深呼吸をし、黒いかたまりに近づいていった。
 近くから目を凝らすと、上掛けにくるまって眠っているのはやはりジュダルだった。結った髪が床に垂れ下がっている。だが額に触って発熱しているかどうかを知る度胸はない白龍は、寝台のそばにひたすら立ち尽くしていた。目を覚ましたらどうしよう、と思う。何しにきたんだよ、と言われたら何と返したらいいのだろう。「熱を出して寝込んでいる神官殿を笑いに来ました」とバカ正直に答えればいいのだろうか。そうしたら「ふーん? 笑えたかよ? こんなとこに幽霊みてえに立って俺の顔見て楽しかったか? なあ白龍?」とにやにや笑われるだろう。だめだ、と白龍はつぶやく。シンドリアへ使命を果たしに行く大事な日を前にして、いったい何をやっているのだ俺は。ため息をつき、脱力してしゃがみ込む。
 そのときだった。ううう、と弱々しい声が聞こえた。あのジュダルの声とは思えないほど、苦しみと弱さに満ちていた。まるで人間のような、子どものような、自分のような。白龍は顔を上げ、膝立ちになってジュダルの寝台に目を凝らした。ジュダルは顔をこちらへ向けていた。目はしっかり閉じられているが眉根が苦しげに寄せられている。まさか目の前に顔があると思っていなかった白龍は思わず飛びのきそうになったが、何とかこらえて恐る恐るジュダルの様子をうかがった。
 ジュダルは「うう」と何度もうなった。そのうめきは言葉になりそうなのに、混沌から形をなしはしなかった。悲しみでも怒りでもなく、それは言葉もなく正体もあらわさずにジュダルを苦しめているように思えた。しかしそんなにも苦しめられながら、白龍のように何かにすがろうとしているとは思えなかった。ジュダルは自分がそんな手を持っているということをさえ知らないように思えた。
 ただ熱にうなされているだけだろう、と分かっていながら、なんとなく手を伸ばした。父や兄の仇と同じ天を戴いてはいけないことを知っていながら、なんとなく肩に手をかけた。自分でもどうしてそんなことをしたのか分からなかった。ジュダルの肩はこわばっていた。薄い夜着を着せられているらしくつるりとした布の感触がした。白龍は息を止めたまま、自分自身の混乱が収まるのをじっと待っていた。しかし手を離すことはできなかった。いったい何をやっているんだ、俺は。
 やがて肩が動き、それに続いて衣擦れの音がし、ジュダルは何か明確な意志を持って誰かの名前をつぶやいたが、聞いたこともない奇妙な言葉の響きだったからそれが誰の名なのか白龍には分からなかった。寝ぼけているのか、熱に浮かされているのか、両方なのか。
「白龍?」
 急に名前を呼ばれ、白龍は心臓の芯まで凍りついた。炎に触ったかのように肩から手を離し、尻もちをつく。ジュダルは首を鳴らしながら起き上がって大きなあくびをした。
「何やってんだよ。夜這いしにきたのか?」
「よっ、よば!? そんなわけないでしょう! ふざけないでください!」
「うるせーなー。でっけー声出すと気付かれてつまみ出さんぞ」
 両手で口を覆い、白龍は扉に目をやって耳をそばだてる。足音は聞こえない。相変わらず扉が風でがたがたと揺れる音がするだけだ。
「よく分かんねーけどまあいっか。俺寝るから、静かにしてろよ」
「寝るのですか? 何とも思われないのか」
 目を覚ましたら白龍が覆いかぶさっていた、なんていう状況なのに。白龍はなぜか自分が理不尽な目に遭ったような気がして、もぞもぞと上掛けの中に入り込むジュダルの肩を揺さぶった。
「あ、ああ、そういえば熱があるのでしたか。失礼を」
「熱う? ねーよ。お前みたいなよわっちいのと一緒にすんなよ。風邪なんかひいたことねー」
「そんな!」
 白龍は愕然とし、ぼんやり暗いジュダルの顔を見直した。この一週間はいったいなんだったのだ。
「もう寝かせろよー。眠いんだよ。昨日ババアがずっと寝てたせいで体なまってっから付き合えとか言ってよお、夏黄文と三人で夜中まで、」
 ふわあ、というやる気のないあくびが言葉をさえぎった。白龍は「なんてふしだらな」と吐き捨てるようにつぶやき、けがらわしいものを見るかのようにジュダルの横顔を見下ろす。もし紅玉でなく白瑛の名が挙がっていたのだったらつかみかかっていたかもしれない。
「義姉上は武人ですが嫁入り前の皇女ではないですか。なんということをするのだ」
「なんということをって、いつもと同じことしかしてねーよ。ていうかいちいち説明しなくてもお前知ってんだろ。ずっと見てたんだからよ」
「な、」
 顔からざああ、と音がして血の気が引いていく。見られていたのだ。
「まさか、気付いていたのか」
「だってお前見えてんだもん。丸見えなんだよ。うわさになってんの知らねーのかよ」
「そんなはずがない! ちゃんと隠れていました! 誰にも見つからないように! それに、怪しまれるから夜はやめていたのに」
 くくく、とくぐもった声が聞こえた。ジュダルが肩を震わせて笑っているのだ。
「日が暮れる前に帰りましょーってやつかよ? いつまでもガキだなーお前。何でつきまとってたのかは知らねーけどよ、やるんならもっと上手くやれよな」
 ジュダルの肩をつかむ手に力が入ってしまう。何も言い返せない。自分がやっていることは子どもたちが野原でやるような遊び程度のものだ。いつの間にか周囲は大人になってしまって、白龍ひとりがいまだに野原に取り残されている。誰かが迎えに来て、大丈夫だよと声をかけてくれて、背負って連れて帰ってくれるのを待っている。
「泣くなよーめんどくせーな……。夜這いしにきて何で泣いてんだよ」
「よ、ばい、じゃない!」
 嗚咽が止まらないから情けない声になってしまう。白龍はうーうーとうなり、内心の悔しさと情けなさをどうにかしてジュダルにぶつけてやろうと必死に考えていた。それは八つ当たり以外の何ものでもない。このくだらない仕返しだって八つ当たりだし、お前は母と同じ組織の人間だから憎い、いつか殺してやると思い続けるのも八つ当たりなのだろう。おれは結局、いつまで経っても子どもなのだ。誰かに守られ続ける「いい子」なのだ。そんなことは自分が一番よく分かっている。
 涙と鼻水をぽたぽたとこぼしながら、白龍はジュダルの両肩を寝台に押し付けた。ジュダルは抵抗をしなかった。抵抗しようと思えばできただろう。一瞬で物言わぬ体にされただろう。しかしそれどころかジュダルは低く笑ってその乱暴なやり方を受け入れた。口付けはせずに耳にかじりつき、女物かと思えるような手触りの夜着をはぎとって寝台の下に放り、改めて手首を押さえつける。はあはあ、という浅い呼吸の音が耳にうるさい。部屋が暗くてよかった。もし昼だったら、光の下にまざまざとさらされる自分の姿にとても耐えられなかっただろう。きっとみにくい獣の顔をしている。白龍は閨房にこもる男女独特のあの顔が大嫌いだった。媚びて汚らしい顔。母のような顔。どんなに人のよさそうな顔をしていても、どんなに賢そうに振舞っても、閨の中ではみな同じ顔をする。あんなもの快楽でもなんでもない、と白龍は思っている。汚物を突きつけられながら、どうして快と感じることができるだろう。それが皇族の「義務」だからようやく吐かずにいられる程度のものだ。
 ちょうどよく月明かりは寝台を避けて差し込み、自分たちの姿はすっかりと暗闇に隠れた。白龍は吐き気をこらえて震えながら冷たい肌に歯を立てていった。本当は吸い付こうとしたのに、力が入りすぎて上手くできなかったのだ。肩と鎖骨と胸と上腕が歯型だらけになっているというのに、ジュダルは痛いとも何とも言わなかった。ときどき空いている手で白龍のこわばった肩に触れ、撫でたりつついたりしていた。その手は白龍を決して冷静にはさせなかった。やめなければ、と思うのに余計にやめられなくなった。腹の奥がずきずきと疼き、こらえられなくて息を吐いた。ジュダルのみぞおちに顔をうずめて気を鎮める。女の腹と違ってやわらかくないからか、不思議と落ち着いた。そのまま両手をすべらせて背中側からジュダルの体を掬って起こさせた。軽くはないが重くもなかった。白いあごが暗闇に浮かび上がって見える。白龍は震える唇をそのあごに押し付け、はだかの体をぎこちなく抱きしめた。
 いったいおれは何をやっているんだ。ジュダルと頬とくっつけ合いながら、白龍は心の中でそうつぶやいた。ジュダルは相変わらずされるがままで、何の言葉も発しないし、抵抗もしなければことさら煽り立てるようなこともしない。いったい何を考えているのか、何を感じているのかが分からない。こんな風に扱われることを恐れている風ではないが、かといって慣れている風でもない。この行為の意味と意図を本当の意味で理解しているのか。なぜ何も言わないんだ。なぜ受け入れているんだ。白龍はこみ上げてくる恐ろしさと焦燥感に耐え切れなくてもう一度耳にかぶりついた。
 歯型を確かめるように上半身を撫で回し、薄い胸を執拗に愛撫したとき、ジュダルは初めて反応らしきものを示した。とはいえ声をあげたわけではないし、何かを言ったわけでもない。一瞬息が止まっただけだ。それだけなのにどうしてか怖かった。自分がとんでもないことをしているような気がしてぞくぞくした。甘えるようにそこに頬を摺り寄せ、舌でこそげ取るように往復させ、強く吸い付いて軽く歯を立てると「いてえ」という言葉が頭上から降ってきた。ぞくっとする。痛い方がいい。こんなことは自分にとっては気持ち悪いだけで何の快楽でもないのだから、ジュダルにとっても快楽であってはいけない。そう思うと頭の中が真っ白に染まり、もう一度乱暴に手首を押さえ、そこに唇をつけた。「痛い」と言わせたくて強く吸い、歯の先を触れさせる。ジュダルは体をよじるだけで抵抗はしなかったが、やがてうんざりとした調子で足を白龍の太ももに押し付けてきた。服越しなのにひやっと冷たくて、ひ、と声が漏れる。
「なあ、お前、出したいんだろ? 溜まってんだろ? なら早く終わらせろよしっつけーな」
 否定と罵倒を返したかったが言葉にはならなかった。ジュダルは足をすばやく太ももから移動させ、熱くなっていたものをぎゅうと押さえつけてきたからだ。頭の後ろを強く殴られたかのような衝撃だった。背筋がびりびりと戦慄し、自分の意志では動けないのに勝手に大きく痙攣する。あ、あ、という情けない声が出てしまい、白龍は片目から涙を流した。
「神官殿、あ、あし、を」
「はあ? 何だって? はっきり言えよ」
「足を、どけろ!」
 突然の大声にひるんだのかジュダルは猫のようにびくっと体を震わせたが、白龍の望む通りにはしてくれなかった。
「な、何だよ、いいんだろ。好きなんだろ、こういうの」
「好きなわけがない! どけてください! でないと、」
 脅しめいたことを言おうとして、白龍はまたしても言えなかった。足が動き、上下に揺らすように動く。目の前がちかちかして呼吸もできない。下半身の感覚はなくなっており、冷静に今の状態を把握しようとするとそれだけで頭の中がじんと痺れ、同時に吐きたくなるくらいの嫌悪感が押し寄せてくる。
 ジュダルは傷口をナイフで抉られてでもいるような悲鳴をあげ続けている白龍の口をゆっくりと、しかし強く手でふさいだ。
「お前うるせーよ。踏み込まれて追い出されんぞ」
 涙が伝い続けている頬をこわばらせ、白龍は何とか奥歯をかみ締めて声を殺した。それでも喉の奥からしゃくり上げるような嗚咽が漏れて、恥ずかしくて死にたくなった。腰はがくがくと揺れ、もはや絶頂に達しているのかいないのかも分からない。ジュダルの足はやわらかくはなく、むしろしっかりと筋肉がついて足先からかかとまで極端な曲線を描いてカーブしていた。ある意味では美しいといえなくもなかった。その足で硬くなったものをからかうように押し付けたり上下に動かしたりしている。意志を持っているのかいないのかよく分からないながらも確実に白龍を絶望のふちに追いやっていった。いやだ、と小声で訴える。その声は哀願に近く、情けないを通り越して気分が悪くなる。閨房でこんな狂態をさらしたことはなかった。もちろん足で踏みつけられたことだってない。
 ジュダルの手に口を覆われたまま思い切り頭を振り、狂乱に耐えようとする。足の指が敏感な先端をかすめたせいで逆に何が欲しいのかをはっきりと自覚するはめになり、それが混乱に拍車をかけた。欲しい。このままだって構わないから早く達したい。そんなんじゃない、違う、こんなのいやだ、とジュダルの指の間から叫んだとき、さっと足が外された。
 体重をかけていたからか前につんのめりそうになり、白龍は手で自分の体を支えながら恐る恐るジュダルの方を見る。ジュダルはうっとうしそうに髪をかき上げながら自分の足の裏を見つめていた。
「うえー汗かいてら、気持ちわりい」
 手で足の裏をあおぎ、顔をしかめている。
「な、ぜ……?」
「はあ? なぜって何だよ」
「なぜ、こんな、辱めを」
 恥ずかしくてはっきりとは言えなくて、白龍は裸のままのジュダルから目をそむけた。ジュダルの姿は月明かりにもさらされず、もやもやとした黒さに覆われている。
「はーめんどくせーな、やっぱり出したかったのかよ。出したいなら出したいってはっきり言えよな」
「ち、違う! そんなことではなくて!」
 また口を開きかけるのを止めようとして、白龍はジュダルに飛びかかって押し倒した。細かな顔の造作は見分けられないが、鼻や頬や額の白さと髪の黒さだけは分かる。心臓がずきずきと痛み、みっともなく荒くなっている自分の呼吸の音がうるさく響いている。体の隅から隅までが火照っている。欲しいと思う。欲しいのは間違いないのだけれど、いったい何が欲しいのか分からない。白龍は凍りついたまま動けない。
 おれは何をしているのだろう、というよりは、おれは何をしたいのだろう、と強く感じた。おれは「ジュダル」に何をしたいのだろう。きっと同時に存在してはならず、人間なのか神なのか悪神なのかも分からず、そのくせ誰よりも子どもっぽく、白龍が取り残された野原など問題にもならないスケールで遊び続ける、いまだ男にも女にも分かれていない永遠の子どもである「ジュダル」に、おれはいったい何をしてほしいのだろう。
 身動きもできない白龍の首の後ろに手が伸ばされる。手はひやっと冷たく、わずかに汗ばんでいる。
「白龍」
 暗闇から声が聞こえる。それは確かにジュダルの声だが、不思議に大人びて少しかれていた。しかしただの呼びかけだけで、まるきり続きはなかった。ジュダルの手が無遠慮に服に伸ばされ、紐をほどかれ、裾をまくられ、脱がされるというよりははだけさせられていく。そして熱い素肌が露出した部分に手のひらを当て、ジュダルは息を漏らして笑った。ジュダルの冷たい手はその熱を吸ってあたたかくなり、触れているものを受け入れるような、吸い付くような手触りに変った。
 白龍は息を殺し、盗み取ろうとでもするような手つきで体に触り返した。体が密着しているところはあたたかく、そうでないところは冷たい。手をすべらせながらもどかしくなって思い切り抱きしめた。抱きしめるというよりはすがりつくような強さで必死にしがみついていた。受け入れられるのがなぜか怖くてかたかたと震えてしまう。しばらくすると、ジュダルの体は発熱でもしているかのようにあたたかくなった。
 しかし熱いのが嫌なのか、ジュダルは体をよじって白龍の汗まみれの腕から逃れ、「ふう」と息をついた。そして片膝を立て、小さな尻を少し浮かせてまた落とした。そのしぐさからかすかな情欲の息遣いを感じ取った白龍は恐る恐る手を伸ばして下腹部に触った。女と違ってやわらかくはなく、力が入ると筋肉が動くのがよく分かる。そこから少しずつ手を移動させ、性器のあるべき場所にそっと手のひらを触れた。
 そこは硬く芯を持ち始めていて、思ったよりも熱かった。しかし白龍はその感触を手のひらから受け取るのに精一杯で、それ以上どうしたらいいのか分からない。右手は自分のものでないかのようで、ちっとも言うことを聞かない。ジュダルは完全に無反応だ。暗くて顔は見えないし、声も発しなければ息も乱さない。触っていいのか悪いのか、いったいどうしたらいいのか、どうしたいのか、何も考えられなくてただ速い呼吸だけを繰り返していた。ただでさえ暗い視界は狭まり、怖くて泣きたくなってくる。体を離して寝台から降り、逃げ帰ってしまいたい。そしてこんなこと、なかったことにしてしまいたい。本当に泣き出しかける寸前、ジュダルが苦しげにうめいた。
「いってえよ。そんな力入れんなよな」
 ジュダルは白龍の手を軽くて叩いてゆるめさせた。いつの間にか手の中に握り込んでいたらしい。
「お前さあ、いつもこうなのかよ。へたくそすぎんだろ」
「へっ、へた!?」
 白龍は目を剥いてジュダルを見た。極端に狭まっていた視界が一気に広がる。
「なんだかしらねーけどグダグダやってねーでさっさと終わらせろよなー。やりてーんだろ」
 うう、と喉の奥から声が漏れる。ジュダルがため息をつきながら足を広げてきたからだ。もちろん暗くてよくは見えないが、白龍はもう膝立ちでいることすらできなくなって後ろに倒れこんだ。息もできないほどの欲望が全身を包む。奥へ奥へと誘い込むような闇が目に付いて離れない。闇の中に浮かび上がる白い脚が自分の体に絡みついてくるところ、生温かい肉の内側に入り込むところ、何も考えられず貪るだけの存在になった自分の顔、わざとらしく嫌がり、嬌声をあげながら勝ち誇るジュダルの顔を想像する。それは醜悪にゆがめられてもはや原型を留めない母の顔に変っていく。気持ちが悪くて吐きそうだ。しかも相手はただの女でなくジュダルなのだ。もし誘われるままに深く交わってしまったら、自分で自分を許せなくなる。刺し違えて死んだ方がましだ。
 おーい、とのんきな声がし、白龍ははっと顔を上げた。
「やらねーの? さみーよ」
「俺は、出て行きます。このことは忘れてください」
「はああ? まあ別にいいけど何怒ってんだよ」
「誰とでもこんなことをするのでしょう、あなたは。男でも女でも、わが国の人間でなくとも。あの女と同じだ」
 両拳をぎゅううと握り締め、白龍はジュダルの白い頬をにらみつける。
「だがやめろとは言いません。俺に関わりのないところで、どうぞお好きにしたらいい。だがもし姉に手を出したら殺す。それだけは覚えておいていただきたい」
「あのさーお前さー」
 脱力しきった声で、ジュダルはそう言った。
「聞きてーんだけど、今こうなってんの、誰のせいなんだよ」
「はい?」
「何でこんなさみーのに俺裸になってると思ってんだよ。肩とか噛まれていてーしよ。大体、何でお前がこの部屋にいんだよ。なあ?」
「それは、」
 返答に詰まり、白龍は思わず間抜けな姿のまま寝台に正座をした。確かにすべて自分のせいだ。
「ま、そんなのどうでもいいんだけどよお、お前めんどくせーから」
 ジュダルは暗闇からにゅっと腕を伸ばし、白龍の首に絡みつかせる。近くに息遣いを感じる。汗で湿った肌がぴったりと密着し、ジュダルはいきなり性器を強くつかんだ。
 ひ、と声が出た。驚いたのと痛いのが同時に来て思い切り腰が引ける。しかしそこはまだ浅ましく硬くなったままで、ジュダルの手のひらに細かな痙攣を伝えてしまっていた。
「は、離せ!」
 恥ずかしいのと悔しいのとで混乱し、白龍はジュダルの腕の中でめちゃくちゃに暴れた。だがジュダルはおかしそうに笑っただけで手を離しもしない。
「何だよほら、やりてーんだろ」
 違う、と否定するのも白々しくてきつく唇を噛み締めた。腰の奥に熱が集まってくる。性器をつかまれているからというだけではない。すぐそばにある裸の肌の感触、息遣い、さっきの、愛撫とはとてもいえないような接触を思い出し、どうしようもなく体が熱くなっていった。耐えきれなくて片腕をジュダルの背中に回す。するとジュダルは触れ合っているひざと太ももをこすり合わせるように動かし、ため息をついた。二人とも片腕だけで抱き合っているような格好になる。白龍はそのままの態勢でそっともう片方の手を伸ばし、もやもやとした闇の中に手を突っ込んだ。熱をもったものを下からなぞり上げると、わずかに体が震えた。ジュダルはどこか不思議そうな手つきで同じことをやり返してくる。からかっているというよりは、ただされたことをそのまま真似をしているだけに思えた。その動きはぎこちなく、何も知らない子どものようだった。もっとさせたくて、直感を確かめたくて、同じことを続ける。手を優しく上下させたり先端に触れたり、そのたびにジュダルはため息をついて腰を浮かせ、必死についていこうと試みていた。自分と同じくらいへたくそな愛撫だったが、背筋が痺れるほどの快楽だった。白龍はひっきりなしに苦しげにあえぎ、意識をそらして唐突な射精から逃れようとしていた。
 ただ不器用に触り合っているだけなのにひとつになっているような気がする。暗い肉の中に突き入れて、犯して、思うがままに揺さぶっているような気がする。そんなときでもジュダルは薄く笑っているだけだろう。たまに差し出されてくる女たちのように、乱暴に扱われて傷ついたという顔も、情愛への期待に満ちた顔もしないだろう。何をされても明日には忘れてしまうし、二度と思い出しもしないのだろう。
 後悔すると分かっていながら、そう思うともう我慢ができなかった。無理矢理あわただしく押し倒し、仰向けになったジュダルの上にのしかかる。ジュダルは何かを言いたそうに「おい」と声を発したが、脈打っている性器が下腹部に押し付けられているのに気が付くと足を少し開いて震えている白龍の腕に手を添えた。顔は見えないが、たぶん笑っているだろう。片足を抱え上げ、ぎこちなく震えながら暗い闇の中へと入っていく。はっきりっとした肉の感触が伝わってくるが、突き入れて犯しているその場所は虚空であり、どこでもない場所だ。単なるむなしい闇だ。ジュダルは手を伸ばし、自分の脚の付け根にぎゅうぎゅうと押し当てられているものをそっと手で撫で、切なげに息を吐いた。
 後は無我夢中で、よくは覚えていない。ジュダルの体がずり上がっていってしまうくらいに力いっぱいに突き上げ、すべてのことがどうでもよくなってしまうほどに夢中でそれを繰り返し、抑えることもできずにあえいだ。ジュダルも同じようにあえがせたくて強く性器を擦りたてる。あ、あ、と短い感覚で声が漏れていた。それが自分のものかどうかはもう分からなくなっている。
 射精の直前、頭の中に名前が浮かびかけ、言葉になろうとした。しかし白龍はその名前が口から出る瞬間にそれを握りつぶした。名前なんか呼んだら、もう生きていられなくなってしまう。きっと弱々しく甘ったれて、慰めてくれ、優しくしてくれ、抱いていくれ、受け入れてくれとすがりつくような声になってしまう。そんな声を聞かれたらもう自分ではいられなくなってしまう。あまりに苦しい吐精をしながら、言葉の代わりに涙がぽたぽたとこぼれた。体の中では相変わらずジュダルの名前が、そして他の何かが何とか言葉になろうとして激しく暴れていた。痛くて、悲しくてたまらない。ジュダルは白龍の首に思い切りしがみつきながら、苦しそうにあえいで体を痙攣させていた。ジュダルのその声からも、何かが言葉になりそうでならない痛みを感じた。しかしもしかしたらそれは白龍の名前などではなくもっとはっきりしない曖昧な何かだったのかもしれないが、それがいったい何なのか子どもである自分たちに分かるはずもなかった。
 暗闇の中で知らないうちに握りつぶされ、二度と顧みられることのないたくさんのものが野原に置き去りにされていく。でも自分たちはそれぞれの遊びに夢中で、置き去りにしてきたことになんて気付かない。見下ろせばそこにあるのに、前しか見ていないから。
 裸の胸に落ち続けた涙がジュダルの体を着実に冷やしていった。苦しいからもっと息がしたいのに、嗚咽のせいで上手くできない。背中が汗で冷たい。おびただしい精液で汚れている下腹部はさらに冷たく、とっくに熱の引いた体を凍えさせた。もう何も感じないはずなのに、いまさら火傷のあとがじんと痛い。ジュダルは荒く息をしながらわけの分からない理由で泣いている白龍の顔をただじっと見上げているだけだったが、やがて涙で濡れている頬を上から下に撫でてきた。だが涙を拭うでもなく、ただ撫でただけだ。猫のように気まぐれに。
 こんなことしなければよかった、と白龍はそのとき強く思った。こんな風にされたくなかった。心臓の表面を遠慮なしに撫でてくる手を知ってしまったら、もう戻れなくなってしまう。もう自分ではいられなくなってしまう。おれたちは同じ子どもなのだ。知らないうちに野原に置き去りにされた、永遠の子どもたち。
「うーさみい」
 しばらく経った後、ジュダルはそうつぶやいて体を起こした。月光が差し込んでくる角度が変わったのか脚の間から半透明な体液が滴っているところがはっきりと見え、白龍は思い切り目を背けた。
「べたべたして気持ちわりーし風呂入ろ。お前も来るか?」
「行きません」
「ふーん、まあいいけど」
「他に言うことはないのですか。こんなことをされて」
「あるけど、言ったらお前泣くからめんどくせーし」
「泣きませんよ! 言いたいことがおありならはっきり言っていただきたい」
 白龍は目を合わせないように斜めを向きながら正座をした。
「へたくそ」
「はっ?」
「犬じゃねーんだから強く噛むなよ。いてーんだよ」
 伸びをした後であくびをし、ジュダルは頭をぼりぼり掻きながら寝台から降りようとした。さっきまでと違って寝台の上がよく見えるようになってしまったから目のやり場に困る。
「ど、どこへ行かれる?」
「だからあ、さっきから言ってんだろ。風呂だよ」
 うう、とうなり、白龍はうなだれた。これでよかったのだ。相手はジュダルなのだから、気遣う必要だってないし罪悪感を覚える必要だってない。どうせ敵に回す相手なのだ。分かりあうことだって一生ない。シンドリアにいる間にこんなこともう忘れてしまうだろう。思い出すこともないだろう。だからいいのだ。呆気なく去っていく体温を惜しく思うことなどない。
「なー白龍」
 適当に後始末だけして何も着ずに部屋を出ていこうとしたジュダルは、思い出したように振り向いた。
「帰るとき見つかんなよ。夜這いしに来たってバレちまうからな」
「夜這い、じゃ、ない! いったい何度言わせるんです!?」
 白龍は言い終わった後に咳払いをした。そうは言っても説得力はまるでない。やったことは夜這い以外の何ものでもないのだ。
「俺はただ、仕返しにきただけです。熱を出してうなされていたのを笑われたから、同じことをやり返してやろうと。上手くはいきませんでしたが」
「ふーん」
 てっきり爆笑されてからかわれて最悪の場合今すぐ天山にいる姉や青舜に告げ口されに行かれると思ったが、ジュダルはにやっと笑っただけだった。
「そんで、何か言ってたかよ。お前みてーに、あねうえーって」
「いいえ、特には何も」
 何も言っていなかったわけではないが、聞き取れはしなかった。しかしそんなことをジュダルに告げて、変に期待したり惜しくならないうちに握りつぶして暗闇にぽいと捨ててしまった方がいい。そうすれば二度と顧みられることもないだろう。
 ジュダルはふーんと言って背を向けた。白龍は唇を噛み、暗闇の奥へ消えていくジュダルの背中を、視界のはしにとらえていた。それを惜しく思う必要はないのだ。
       




 シンドリアへ向けて発つ日を三日後にひかえた夜、同行する紅玉の従者である夏黄文が部屋を訪ねてきた。挨拶に来たのかと思ったら、紅玉がぶり返した風邪に苦しんでいることを伝えにきたらしかった。
「義姉上にはお気の毒とは思うが、出発の日はずらせない。皇帝陛下のご指示だ。今回は残念だが同行はあきらめていただこう」
「それは大丈夫でありますよ。姫君はああ見えて金属器使いゆえ、頑健であらせられる。熱がおありでも車輿の旅にも耐えられましょう。姫君ご自身も、どうしても行くとおっしゃられております」
 白龍は心の中で軽く舌打ちをした。紅玉は紅炎やジュダルに近い人物だ。白龍がシンドリアでしようとしていることを見咎められたり妨害されたりしたら面倒なことになる。紅玉たちが来られないというのなら、今の白龍にとってこれ以上喜ばしいことはなかった。
「それならいったい何用だ。お前がいるのだから医者の紹介など必要ないだろう。第四皇子の俺が義姉上にできることは限られているのだし」
 不機嫌さを隠してそう言うと、夏黄文は音もなく優雅に膝をついた。
「皇子殿下にお聞きしたいことがあって参ったのであります。先日、皇子も熱を出されたのだとか」
「それがどうしたというんだ」
 いったい誰に聞いた、と問いただしたかったがやめておいた。いつものことだ。女官たちの口に戸は立てられない。
「今日はだいぶ落ち着いているのですが、姫君がいまだ熱にうなされておりまして」
 夏黄文が憔悴した顔で眉根を寄せると、白龍も同じように顔をしかめた。なぜそんな状態で長距離を旅する気なのか不思議でならない。義姉にとってよほど会いたい相手であるらしい。シンドバッド王という男は。
「ずっと母君を呼んでおられるのであります。私や女官などではどうにもならず、皇后陛下にご足労願うわけにもいかず困り果てておりますところで……。部屋づきの女官が白龍皇子にお聞きすればどうしたらいいか分かるのではないかと申すものでありますから」
「なぜだ? 俺に分かるわけがないだろう。まさか俺から皇后陛下に頼めというのか」
 そんなこと考えるだけでぞっとする。そもそも紅玉にとって玉艶は実の母などではない。表面上は優しい義母だろうが、あの女の皮一枚下のおぞましさと冷たさに気付いていないわけはないだろう。そんな人間に優しくしてもらったところで病はひどくなりこそすれ治りはしない。
「いいえ、そういうわけではありません。そんなことは姫君も望んでおられないでありましょう。皇子にお聞きしたいのは、乗り越え方、であります」
「乗り越え方? いったい何のことを言っているんだ」
「皇子殿下もまた風邪や流感にかかられるたびに母君をお呼びになっておられると聞いております。ですが皇子はすでに皇后陛下のお手を離れられた身。どのように乗り越えておられるのかと」
「何だって……?」
 白龍は愕然とし、どこか含みのありそうな夏黄文の顔をまじまじと見つめた。「流感のたびに母君をお呼びになっておられる」?
「誰が、いつ母を呼んだと言うんだ? 誰かと間違えているのではないのか」
「皇子殿下のお付きの女官から聞いたと申しておりましたが……。間違いでありましたか」
「当たり前だ! なんという無礼な!」
 白龍の怒りをまともに受けても平然としている夏黄文は、口元を手で隠して「これは異なこと」とつぶやいた。
「ともかくも大変失礼をいたしました。皇子がお怒りになられるとは思っておりませんで……」
「そういう問題ではない。万人に対する侮辱じゃないか」
「はあ、ですが、皇子も姫君もまだ母君に甘えたい年頃でもありましょう。そうおかしなことではないかと思われますが」
 ふざけるな、と叫びたくなったが、何とかこらえた。夏黄文は何も悪いことはしていないのだ。感情を殺して夏黄文を退出させ、白龍は椅子の上でひざを抱えて丸くなった。気分が悪い。吐き気がこみ上げてくる。おれが母の名を呼んでいたわけはない。絶対に間違いだ。あるいは女官がわざとそのような噂を流したのだ。その証拠に、熱を出すたびやってくるジュダルの口からはそんなこと一言も聞かなかったではないか。そこまで考えて、そんな言い訳はむなしいということに気付かないわけがなかった。あいつはきっと、すべて知ったうえで嘘をついたのだ。
 ははうえ、と呼んでいる自分の顔を想像すると死にたくなる。愛されていないことが悲しいわけじゃない。自分には母など最初からいなかったのだから。白龍は愛と名のつくものから徹底的に無縁な暗闇から生れてきた。しかしもやもやした暗闇から湧き出る不安や怒りやさみしさや悲しみを、子どもはたった一言で表現するのだ。「おかあさん」。ただそれだけだ。その名を呼ばないのは、「普通」でないものだけだ。ジュダルのような。ジュダルはきっとそれを一生口にすることはないだろう。意識の表面に浮かぶことすらないだろう。白龍は突き上げるような羨望を感じ、唇を噛む。あんな風になれたらよかった。
 けれど不器用に体をくっつけあいながら、あるいは夢と眠りの最中にジュダルの中の暗い混沌が言葉として形をなすことがあるのなら、白龍はそれを知りたいと思う。おれたちはどれくらい違うのか、やはり同じなのか、それを知りたい。それは嫌悪感には違いないが、どこか奇妙な連帯感に似ていた。あの夜のことは二人だけの秘密だ。握りつぶされ、忘れ去られ、置き去りにされ、二度と顧みられることのない、暗闇の中の記憶。
 白龍は吐きたくて口を手で塞ぎながら、どういうわけか少しおかしかった。笑い出しそうなくらいだったが自分でそのおかしさを握りつぶした。白龍はジュダル、と小さくつぶやきかけてあわててやめた。子どもの世界では、飲み込んだ感情と不安と怒りと悲しさは、いつだって一言で表現されるのだ。

2012.10.15
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