赤いあごひげのせいか、「それ」はしばらく気づかれることがなかった。あごのごく近くにそれはあった。最初は血だと思ったらしく、最初に発見した紅玉はあわてふためいて「お兄さま、お顔に血が」と叫んで駆け寄った。しかし血にしては黄味がかっていたから、紅玉は不思議そうにそれを眺めて首をかしげた。
「これ、何ですの?」
 紅炎はしばらく他人事のようにぼやっとしていたが、妹の熱心な視線の先に自分の顔があることに今さら気づいてあごひげを触った。
「これは前からあったと思うが」
「おひげのことではありませんわ。お顔に変なものがくっついていて」
 途端に女官たちが湿らせた布を持って駆け寄ってくる。紅炎はそれであごを拭い、「朱墨だ」とつぶやいた。
「書をなさっておいででしたの」
「中原の字を教えてくれというから付き合っていた」
「ど、どなたにですの……? まさか女性では、」
「ジュダルだ。覚えるのに難儀しているようだから、お前も暇を見て教えてやれ」
 まああ、と顔を輝かせた紅玉は兄の顔をのぞき込んで、いかにも不毛そうなその個人授業の首尾について尋ねていた。二人は去っていき、声が遠くなる。ジュダルは屋根の上でうとうととしながら、それを半分くらい聞いていた。眠くなければ二人の会話に混ざって真っ赤になったり真っ青になったりする紅玉をからかってやりたかったが今はとても目を開けられそうにない。頭を使うと眠くなるのだ。ジュダルは元から読み書きが得意なたちではない。魔法を使うのに必要でなければ覚えずに終わったかもしれないというくらいなのだから。
 眠りに落ちる直前、心地のよい風が吹いてきてジュダルは無自覚ににやっと笑った。高いところはいい。誰にも邪魔されない場所というのはいいものだ。安心して眠れる。ひゅう、と自分が落ちていく感じが気持ちいい。しかしその落下の感覚を味わいきる前に、耳障りな声と骨が折れるかと思うほどの衝撃がジュダルの入眠を妨げた。
「な、な、何をしておられるのです!?」
 何をじゃねーよ、見てわかんだろ、と言い返したかったが上手く口が動かなかった。なぜか体が痛い気がする。眠気をどうにか振り払って目を開けると、目の前に白龍の顔があった。
「お前、どっから来たんだよ?」
 ここは屋根の上だ。誰にも邪魔されないジュダルだけの特等席だったはずだ。白龍には子供の頃から屋根に上って遊ぶようなやんちゃさはなかった。兄姉のまねをしてうかつに高いところに登ってしまって降りられなくてピーピー泣くことはあったかもしれないが。
「神官殿こそどこから落ちてきたのですか! こういう嫌がらせをしないでいただきたい!」
「あん? 落ちてきた?」
 ジュダルは体を起こし、周囲の状況を確認する。遮るもののなかった視界は、白龍の体と木々と朱に塗られた壁で覆われている。あれ、とつぶやき、首をひねって視線を上げる。確かこの建物の屋根の上にいたはずだ。なぜ地上に降りているのだろう。
「あー、ほんとに落ちちまったのか。寝るとこだったのによう」
 あの落下の感覚は本物だったのだ。ということは、屋根から落ちてきたジュダルをたまたま通りかかった白龍が受け止めてくれたのだろう。平屋の屋根でよかった。
「お前タイミングいいなー。助かったぜ白龍」
「悪ふざけは他でやっていただきたいのですが」
「悪ふざけじゃねーよ。ほんとに落ちたんだよ」
 ふわあ、とあくびをし、ジュダルは白龍の体を押し退けて立ち上がる。そういえば何度か屋根や木から落ちたことのあるジュダルだ。大けがこそしたことはないが、落ちるとわりと痛いから白龍がいてよかった。
「あーあ、やっぱ中で寝るかな。お前の部屋で」
「な、なぜです? お断りします」
「何でって、お前の部屋すぐそこだろ? 眠くてたまんねーんだよ」
 もう足下がおぼつかない。地面で寝てもいいならそうするが、組織の人間たちがうるさいからできたらやりたくない。
「別にお前いなくていいからよ、部屋だけ貸せよ。これからどうせ鍛錬とかなんかそういう眠てえことしに行くんだろ」
「いやです」
「何でだよーケチ」
「それは……あなたが汚いからだ」
 あーまた出た、とジュダルは思った。心が汚いとかやり方が汚いとかわけの分からないことで白龍にはよく責められる。かといって言い返しもやり返しもしないでいると「何で否定しないんですかまるで俺の心が汚いみたいじゃないですか」とか言われて泣かれて面倒くさい。
「だからよお、俺眠いんだよ。そういうのは後で誰かに聞いてもらえよ。じゃあな」
「待ってください! 俺の部屋には入らないでいただきたい! どうか!」
 ものすごい形相をした白龍に強く肩をつかまれ、ジュダルはぎょっとして立ち止まった。
「何だよ」
「汚いと言っているではないですか! やめてください汚れます!」
 心とやり方が汚いくらいで部屋まで汚れるのか、とジュダルは素直に不思議に思ったが、白龍ならそういうことを考えそうでもある。眠いし白龍と押し問答をするのも面倒くさいから別の部屋に行こうとして手を押しのけると、白龍は自分の手のひらを見て「うわああ」と叫んだ。
「神官殿、そこにいてください。人を呼んできます。宮に入るのは禊をしてからに」
「みそぎい!? 何でそんなめんどくせーことしなきゃなんねーんだよー!」
 心が汚れていると言われてもある意味事実だし別に何とも思わないジュダルだが、そんな下らない儀式じみたまねをするのは断固としてイヤだった。儀式ってやつは退屈だし、退屈だからといって寝ると怒られる。
「あ、ああ、違う、禊ではなく沐浴です。どちらにしろそのまま宮内に立ち入るのはやめてください」
 白龍は文字どおり汚いものを見る目でジュダルの全身をじろじろと眺めてくる。ジュダルもつられて自分の体を見る。なぜ風呂に入らなければならないのかが分かった。ジュダルの肌や服や髪に墨がべったりとついていたのだった。
「げー、すっげー汚ねえ」
「気付かれなかったのですか」
 黒い墨や朱墨が混じった汚れを見ながら、ジュダルは素直にうなづいた。全然気付かなかった。
「だってよう、書きづれーんだよあの筆ってやつ」
「書をなさっておいでか」
 紅玉が紅炎に聞いたのと同じことを聞く。しかし白龍の声色にはかなりの驚きが混じっていた。
「字、習ってたんだぜ。へへん、すげーだろ」
「そうですか」
 特に興味なさそうに白龍はそう答え、そっと顔を背けた。そして槍を持っていない方の手で回廊を行き来している女官に合図し、こちらへ呼び寄せる。
「とにかく沐浴をしてください。それでは」
「ちょっと待てよ」
 素っ気なく立ち去ろうとする白龍に、ジュダルは横から思い切り抱きついた。だいぶ身長差があるからカエルが踏みつぶされたような悲鳴が聞こえ、ジュダルは思わず首をすくめた。
「うるせー声」
「な、な、何をされるのですか! 宮中で何という破廉恥な」
「ほら、見てみろよ」
 うるさいから体を離し、にやにや笑って白龍の服を指さす。墨と朱墨でべったり汚れ、ているはずが、別に何ということもない。黒い埃がところどころ付着しているだけだ。
「何でお前汚れねーんだよ?」
「そんなこと知りませんよ。墨が乾いたのではないですか」
 しかし白龍はところどころ黒くなったり赤くなったりいている部分を気にしているのかしきりに手のひらではたいている。
「汚いのも屋根から落ちるのも眠るのも神官殿の勝手ですが、もう俺に構わないでいただけますか。迷惑です」
「なー、お前も字、教えろよ。眠気さめちまった」
「俺の話を聞いておられましたか? もう構わないでくださいと、」
「お前が構ってきてんだろ。それならよ、風呂はいろーぜ」
「なっ、ふ、風呂? 俺がですか? なぜですか!? いやです!」
 こいつ大丈夫かと思うほど顔を真っ赤にしてうろたえ、白龍は大げさにとびのいた。
「一人だと髪洗うのめんどくせーんだよ。手伝えよ」
「いやです」
「お前の髪も洗ってやるぜ?」
「いやです! さっさとどこかへ行ってください!」
 あーもーお前面倒くせえ、とジュダルは声に出してつぶやき、きびすを返して宮へ向かう。風呂がどこにあるのか忘れてしまったから誰かに聞かなければならない。だが白龍はまたしてもジュダルの肩を強くつかんで歩みを止めさせた。
「何なんだよ」
「言ったでしょう、そのまま宮内に入らないでいただきたいと!」
「だからよお、風呂の場所がわかんねーんだって……」
 と、そこまで言ったときにちょうどよく白瑛が回廊の奥から現れた。おーい、と手を振り、こっちに呼んだ。白瑛がいてくれればこんなめんどくさい奴といつまでも問答せずに済む。墨だらけのジュダルを見て目を見開いて驚いている白瑛に駆け寄ろうとしたとき、肩と腕がとんでもない方向に引っ張られた。
「ってえ! 離せよ!」
「そんななりで姉上に近づかないでください! 姉上が汚れます!」
 白龍は多分、愚かにもジュダルが白瑛と風呂に入ろうとするのではないかと心配していたのだろう。その懸念はわりと当たっている。
 じたばたと抵抗するジュダルをずりずり引きずり、白龍はなぜか宮の中、そして自分の房にジュダルを引っ張り込んだ。汚れるけどいいのか、と聞くべきだったのかもしれないが、別に聞かなかった。白龍は息を切らせていて結った髪も落ちかけており、何ともひどい有様だった。ひといくさしてきたのかと思うほどだ。ジュダルは質素だが丈夫そうな椅子の上に座り込み、大あくびをした。
「どこだよ」
「何がです」
「お前の寝台」
 がくりと肩を落とし、白龍はほとんど床に座り込みそうになった。
「なぜそう猫のように気まぐれなのですか。その話は終わったはずだ」
「お前のせいでまた疲れたんだよ。めんどくせーことばっか言うから」
「神官殿のせいではないですか!」
 白龍はふうう、と息を吐き、文机の下をごそごそとやり始めた。きちんと墨を洗い落とされた筆と墨と硯と紙の束が現れる。
「字を教えましょう。だがくれぐれも汚さないでください」
「えー……もういいよ」
 すっかり眠くなったジュダルは、早くも椅子の上でうとうとしながらそう言った。
「ふざけないでいただきたい。寝るのなら叩き出します」
「いいぜ別に」
 ううう、とうなる声が聞こえた。また泣くのか、とうんざりする。誰かに押しつけて逃げたいが眠すぎるしそもそもここが白龍の私室なのでそうもいかず、ジュダルは仕方なく目を開けた。
「じゃあ教えろよ」
「どの字がよろしいのか」
「お前の名前」
 ジュダルはまたしてもあくびをし、腕輪を外してむきだしの腕を白龍の方へにゅっと差し出した。
「何のつもりです?」
「ここに書けよ」
 ごくり、と唾を飲み込む音がした。白龍は信じられないものを見る目で腕輪の跡が残る腕と墨だらけのジュダルの顔とを見比べていたが、やがて真っ赤になってがたがたと震えだした。
「そのような、みだらなことはできません。なんという下劣な」
「はああ? 下劣?」
 何を言っているのかさっぱり分からない。ジュダルにしてみれば白龍が座っている文机まで移動するのが面倒だから腕に書けと言っているだけなのだが、何やらおかしなものを想像しているらしい。
「何怒ってんだよ。じゃあ腹でもいいよ……」
「よ、よくありません!」
 勢いよく立ち上がり、白龍は墨に浸した筆を持ったままジュダルに近づいてきた。明らかに目がおかしい。殺人でもするつもりかという感じの目だ。
「なーお前、大丈夫かよ」
「腕を、出してください」
 切り落とすつもりじゃなだろうな、とうっすら思ったが白龍の目が怖かったので何も言わなかった。白龍はぶるぶると震える手でジュダルの腕をそっと取り、静止状態を保てない筆の先を肌に触れるか触れないかくらいのところまで持ってくる。紅炎からは「筆はしっかり持ち、真下に下ろし、紙につけるときは決して震えないように」と教わった気がするのだが白龍はそれを守れていないらしい。う、う、とうなる声がする。ジュダルが首をひねって早くしろよ白龍ー、と声をかけると、白龍は思い切って、といった感じに筆を下ろしてきた。墨のせいでひやっと冷たい。
 点、線、点、点、という調子で文字が書かれていく。初心者のジュダルの目から見てもあまり上手いとは思えないが、白龍の顔は怖いくらいに真剣だ。蛇がのたくっているようにしか見えない文字をジュダルの腕の内側の、ちょうど白くてやわらかい部分に一心不乱に書いている。筆が滑るたびくすぐったくて笑いながら体をよじると腕をつかんでいる白龍の手に力が入りぐっと固定された。痛い。
「白龍、くすぐってえよお」
「我慢してください。あなたが言い出したことだ」
 湿り気と墨の冷たさ、筆が肌をひそやかに摩擦する感触が気持ち悪い。早く終われ、と思っていると、白龍は大きく息を吐いて筆を離した。
「終わり、ました」
 全力疾走をした後のような、思い切り魔法を使って魔力を使い果たす寸前のような息切れと脱力が白龍の表情から伝わってくる。頬がげっそりと落ち、目から力が失われ、汗で髪が湿り鼻の頭が光っている。ふたたび「大丈夫かよお前」と聞いたが白龍は肩を上下させただけで答えなかった。
「書く場所がなかったので、龍の一文字だけです」
「ふーん? 蛇にしか見えねー」
「元は蛇です」
 白龍は手の甲で汗を拭いながらそう答えた。
「龍という字は元々、冠をかぶった蛇がくねるさまを模したものでした。その感想は正しい」
「へー、龍って迷宮生物みたいなもんかと思ってたけどよ、蛇の王様だったのかよ」
「少し違いますが……似たようなものです。龍は蛇のような形をしていて、口から水を吐くと言われている。さあ、出ていってください。俺は神官殿の要求を呑んで差し上げたのだから、あなたもそうすべきだ」
 白龍はだるそうに立ち上がり、筆を片づけ始めた。いかにも疲れた、とった感じで、もう鍛錬どころではないだろう。紅炎も言っていた。書というものはいくさと同じくらいに集中力と体力を使うのだそうだ。わけ分かんねえ、とジュダルは笑って紅炎に答えたが、白龍の様子を見ているとあながち間違ったものでもないらしい。
「なあ白龍」
「まだ用ですか。早く出て行かれよ」
「これ、消えねーようにしろよ」
 ジュダルはこの蛇のことをなかなかに気に入っていた。へたくそだが筆にまったく迷いがないからだ。
「なっ、何を言っておられる! 消えないようになんてできませんよ」
「城下で見たことあるぜー? 腕に墨の字くっつけてる奴」
「それは黥というもので、犯罪者のあかしです。烙印のようなものだ。肌を傷つけて薬を染み込ませて文字を残し、その者が罪をおかしたという事実が消えないようにしているのです」
 ふーん、とジュダルは答え、腕の龍を惜しそうに見やった。痛いのはごめんだ。あっさりあきらめて腕輪を取り、はめようとしたとき、面白いことに気がついた。
「なあ、見ろよ白龍」
「何がです?」
「ほら、蛇」
 龍の字が、黒い墨の蛇が、ジュダルの金色の腕輪ですっぽりと隠れる。しかし冠の部分だけが腕輪から飛び出し、まるで金の蛇が冠をかぶったみたいに見えた。金色の蛇の王様だ。だからといって別に何ということもないのだがなぜだか嬉しくなり、ジュダルがへへ、と笑うと白龍は嫌悪感丸出しのイヤそうな表情でそれをにらんできた。
「さっさと湯浴みに行かれてください」
「何だよ怒んなよ」
「一刻も早くそれを消していただきたい。あなたに関わらなければよかった」
 悔しそうな涙がにじみ、拳にぶるぶると力が入る。何をそんなに悔しがっているのか知らないが、相当にショックだったらしい。
「あー何だかしらねーけど泣くなよ、めんどくせーなお前よお……」
「指図しないでください。あなたの思い通りにはならない」
 嗚咽と鼻水をすする音が鳴り響く中、ジュダルは暗澹たる気分で頬杖をついた。どうにでもすればいいのだ。好きなようにやればいい。自分で勝手に追いつめられて泣いている白龍という男が異世界の生き物のように思える。
「おい白龍、消してほしいんだろ、これ」
 自分でほとんど無理矢理書いたくせに消してほしくて泣くなんてバカとしか思えないのだが、ジュダルは面倒くささから逃げたくてそう聞いた。
「なら消してやるからよ……消したらもう泣くなよ、めんどくせーんだよ」
 あ、という驚いた声が聞こえた。自分の腕の内側に舌を這わせるジュダルを見て息を呑んでいる音が聞こえる。乾き始めた龍の冠を唾液で湿し、丁寧に墨を舌でこそげ取っていく。墨は苦くてまずい。うえ、と声がもれてしまう。
「これでいいだろ」
 白龍はあまりのまずさに渋い顔をしているジュダルを、人食い怪物でも見るような目で上から下までまじまじと見ていた。
「お前よお、何とか言えよ。せっかく消してやったんだから」
「早く、」
 顔を真っ赤にし、白龍は文机の下に隠れた。
「何やってんのお前」
「早く! 出ていってください!」
「はあ?」
「あなたといると惑わされておかしくなるんです! この部屋から出ていってください! 早く!」
 あまりにわけが分からなくて文机の向こうに回り込んでやろうかと思ったが、白龍の泣き声がまたしても聞こえてきたのでやめた。面倒だし確かに出ていった方がいい。ジュダルは首をごきごきと鳴らしながら質素な房を横切り、宮の廊下に出た。泣き声は外にまで聞こえる。どっと疲れて頭をぼりぼり掻くと、腕輪の隙間から龍の文字が見えた。冠は舐め取ってしまったからもう王様ではなく、ただの蛇だ。地に落とされて苦しげに身をよじっている。ふふん、とジュダルは笑い、指で冠の形を描いてやった。冠はジュダルのルフの色にうっすらと浮かび上がる。
 お前のかぶる冠は墨と同じで、きっと苦くて黒い。

2012.10.03
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