南方の占領地のごく狭い地域に蔓延していたに過ぎなかった奇病と呼ぶべき流行り病が瞬く間に煌帝国全土を覆い、やがて都にもはびこり始めた頃、皇帝と皇族たち、それに付き従う百官を東の僻地へ避難させるよう上奏したものがあった。しかし病の本質を軽く見ていた皇帝は「何を大げさな」と笑って取り合わなかった。確かに西方国より時折伝わる黒死病のように死に至る病というわけではない。だが、その病気にかかると自我を失ってけもののようになってしまい、まるきり理性をなくしたまま半日経たないと元には戻らない。現時点でも人間の尊厳すらなくした獣人の群れが大挙して禁城の大門に押し寄せ、それを押し返す衛兵たちにも感染して危機的な状況になっており、それと同時に奥向きの女官たちにも移り、皇族にも感染する危険をはらんでいた。
 実際皇帝が避難の勧告を却下した二週間後、皇女の一人が感染した。彼女はすぐさま幽閉されたが他の皇女や女官は震え上がり、寝室の扉をぴったりと閉ざしてしまった。しかし感染は止まらなかった。皇女らの私室は牢獄と化し、太い閂がかけられた。ジュダルは離宮に避難してきた夏黄文に会って興味本位に事情を聞いたが、あそこは地獄であります、と小さく言ったのみだった。
 だが同じ宮で暮らしていた紅玉になぜか感染しなかったことが皇帝の興味を引いたらしい。ずいぶん前から遠くへ長征している白瑛、紅炎はもとより、宮内にいる紅明、紅覇にも感染していない。迷宮攻略者は病気にかからぬのではないか、と浅はかにも思ったようだった。そのせいでジュダルが呼び出され、皇族の迷宮攻略者を増やせ、と高圧的に言われたその日のことだ。
「増やすのはいいけどよー、一番連れてきてー奴がこんなんだもんなー」
 ジュダルは後ろから白龍の肩にのしかかって冠の緒を噛んでいる。もちろん美味しくはない。単なる遊びだ。白龍はそれを完全に無視して文机に書物を広げていた。
「お前も病気にかかりたくなけりゃ迷宮に行けよ。イヤだろ、あんな病気になんの」
 無言の返事がくる。ジュダルは「ふーん」とつぶやいて頭をずらし、白龍の耳にぴったりと頬をくっつけた。びく、と肩が震え、手首のあたりまで肌が粟立ったのが分かる。
「白龍、お前見たか? 病気にかかった奴」
「し、知りません。それよりも離れて下さい神官殿」
「へー。そういやお前、皇子様だもんなあ、近づかせてなんてもらえねーよな」
「何が言いたいのです。俺とてその流行り病がどういうものなのかくらいは聞いている。感染者はけもののようになるのでしょう」
 その声におびえはない。あまりよくは分かっていないせいだろう。
「ああ、すげーんだぜ。ジジイもガキも、偉い奴も偉くない奴もみんな『そう』なるんだ。見てみてーだろ?」
 白龍はふっと笑い、ゆっくりとジュダルの腕から逃れて書物を手に取る。さっきから文字を追う目線が少しも動いていないことに気付いていたジュダルは止まっている部分を音読してやろうとして口を開きかけたが、白龍の抑制された声に先を越された。
「神官殿の意図は分かっています。俺に病人の様子を見せ、怖がらせ、ああはなりたくないと思わせ、なし崩し的に迷宮へ連れ込むつもりでしょう。その手には引っかかりません。それに苦しんでいる病人をあざ笑うなど、士のすることではない」
「そう思うんなら見てみるべきだろ? お前だって偉い奴なんだからよ、病気のこと何にも知らねーってわけにはいかねーだろ、『皇子様』」
 ジュダルは弁が立つ方ではまったくなくむしろ先に手が出る方だが、謎の情熱に突き動かされてしゃべりまくった。とはいえ白龍は身動きもせず黙っている。心を動かされた様子は見受けられるのだが惑わされてはいけない、とでも思っているのだろう。ジュダルはそれを見て「なんだよめんどくせーなあ」とつい口に出してしまい、白龍にきっとにらまれた。
「今心を決めました。絶対に行きません」
「なんだよう、気になってんだろー? なら見てみりゃいいじゃねーかめんどくせーな」
「あなたの策略には乗らない!」
「はあああ? 策略?」
「奇病が流行し混乱している中、紅炎どのと姉上がいないのをいいことに宮中を好き勝手に壟断しているではないですか。俺はその手には乗りません。他を当たっていただきたい」
「壟断」の意味が分からなかったので聞きたかったが白龍とのやりとりが面倒だったので黙っていた。そのせいで「ほらやっぱり」みたいな顔をされ、ジュダルはにやにや笑ってふたたび後ろから羽交い絞めにした。
「ふーん、お前難しい言葉知ってんなー、白龍」
「は、離してください神官殿! 早くどこかへ消えて、」
 白龍はジュダルの両腕から逃れようと必死にもがいているが、文机の上の硯を倒すまいとするあまりほとんど有効には動けなかった。
「なあ、『百聞は一見に如かず』って知ってるか? 知ってるよなあ、お前なら」
「当たり前でしょう、それが何か」
 懸命に平静を装っているが鼓動の速さと汗は隠せていない。ひひひ、と下品に笑い、ジュダルは白龍の体を上に引っ張り上げた。ひい、とかうわあ、とかそういう声が聞こえたが無視して絨毯を呼び寄せ、無理やり絨毯に乗せる。ここら辺で白龍は早くも心の許容量を超えたらしく、叫びつつ取り乱した。
「ひっ、嫌だ、乗りたくない! 助けてください姉上え!」
「こんなことくらいで泣くなよ。もしかしてお前、高いとこ怖いんじゃねーの?」
「違う!」
 白龍があまりにうるさいからか、扉の外からざわめきが聞こえてきた。女官が集まってきているのだろうか。
「もたもたしてねーで行くぞ白龍。紅明に聞きつけられたらめんどくせーことになるしな」
「嫌だー!!」
 飛び散る涙と叫びを無視し、ジュダルは絨毯を浮かび上がらせて窓の外へ向かった。暴れる白龍がうっかり投身自殺しないように襟首をつかみ、禁城の外を目指す。
 ほんの三ヶ月ほど前まで都は活気に溢れ人の行き来が絶えなかったのだが、今はしいんとしている。異国、異郷より訪れる商売人もない。路地や広場を通るのは奇病に感染したものばかりで、四つんばいで犬に飛びかかったり立て札を壊して振り回したり感染者同士でけだもののように交合していたりなどしてまったく人間には見えない。ジュダルは白龍を振り返って「見てみろよ、すげーだろ」と声をかけたが、白龍は目を見開いて下界を見下ろすのが精一杯といった様子だった。よほどショッキングだったのだろう。ジュダルは首をすくめて白龍の襟首から手を離した。
「こんな、こんな馬鹿なことが」
 ゆっくりと禁城に戻ろうとしたとき、白龍は搾り出すような声でそう言った。
「ほおら、だから言ったろ」
「皇帝陛下はこの惨状をなぜ放っておいているのです」
「ああん? 知らねーよそんなこと」
 現皇帝のことは豚野郎、と公言してはばからないジュダルだ。別に何をしようとしなかろうと興味はない。
「知らないでは済まされないでしょう。神官殿、あなたも官の一人だ。けれど、皇族の一人である俺の罪はさらに重い」
「あーもーいちいちめんどくせーな、病気にかかっても半日で元に戻んだろ? ほっときゃいいんだよ」
 奇病の怖さで脅して迷宮に勧誘する、という当初の目的を忘れたような言い分に、白龍は苦しげな当惑の視線を向けてきた。
「じゃあ何とかしてみろ、できないだろ、とは言わないのですか」
「はあ?」
「言えばいい。実際俺には何もできないのだから。俺は、無力だ」
 そんなん知るかよ……とは言わず、ジュダルはため息をつき頭を掻いた。逆効果だったような気がする。何もかもが面倒になったのでさっさと禁城に戻り、そこらへんの庭に白龍を突き落とすように下ろしてそのまま飛び立った。都も禁城も辛気くさくてたまらない。マギとはいっても人間であって病気をしないわけではないがジュダルは感染を恐れないし、「マギ」よ、くれぐれもあのものたちに近付かないようになされませ、などと言われると逆に近付きたくなってしまうたちだが、白龍のあんな面倒くさい言い分を思い出すとくさくさする。かと言ってどこにも行くあてはないし、組織の人間たちに行き先を告げずに遠出すると後で仕置きされるからおとなしく帰った方が無難だ。それなのに帰る気はしなかった。
 仕方なく絨毯を降り、浮遊魔法で都の上空を歩く。空はおれだけの場所だ、とジュダルは思っている。空を飛べる魔法道具はいくらでもあるし世界には浮遊魔法を使える魔道士など数え切れないくらいいるだろうが、それでもここはジュダルだけの場所だった。下界のことなど何の関係もなくいられるし、誰も追いかけてこられない。へへん、と声に出して得意げに笑い、はるか下の禁城を見下ろす。今頃、白龍が先走って一人で何かしようとして紅明あたりに止められているのだろう。白龍は義理の兄弟たちにほとんど心を開かないから強く我を通すことはせずおとなしく従っているのだろう。それを思うと爆笑したいほど愉快になるし、少しだけ不憫にも思えてくる。どっちにしろからかってやりたくなる。そういういたずら心に勝てず、ジュダルは空をゆっくりと下降し始めた。一番高い塔の上に降り立ち、白龍の姿を探す。
 案の定白龍はしゅんと肩を落とし、従者に付き添われて自室へ帰っていくところだった。おーい白龍、と声をかけ、地面に降り立つ。
「紅明に怒られたんだろ」
 肩を叩こうとすると、もう戻ってきたのか、とでも言いたげなうんざりした視線を向けてきた。
「あなたには関係のないことです。もう俺に構わないでいただきたい」
「そうつれねーこと言うなよ。俺だって責任感じてんだぜ、責任」
 白龍はぎょっとしてジュダルを見た。ぎょっとするところなのかそこは、と首を傾げたくなったが、ジュダルはとりあえず適当なことを言ってその態度に付け込むことにした。
「確かにお前の言うとおり、俺も煌帝国のしもべだもんな? そうだろ、白龍。なんかしなきゃなんねーよな?」
「神官殿」
 ぴたりと歩みを止め、白龍は頭を落として顔を伏せた。なんだよ、と返すと、音がするくらいに強く拳を握っているのが分かった。
「あなたは嘘つきだ。だから信用できないんだ」
 白龍の顔をどうにかして覗き込もうとしながら、ジュダルはにやっと笑った。確かに嘘だ。ジュダルは何の意図もなくとも気まぐれでたまに嘘をつく。
「神官殿に限らない。みんな、みんな嘘つきだ。みんな、信用できない」
 肩とひざがぶるぶる震え、今にも倒れこみそうな白龍だ。派手な嗚咽が聞こえる。ジュダルは戻ってきたことを本気で後悔していた。白龍はまるで火薬庫だ。簡単に爆発しすぎる。
「白龍、お前よう……」
 慰める気など元からないし泣き止んでもらいたいとも元気になってほしいとも別に思わないので正直放置してまた空へ帰りたかったが、後ろに控えている従者が今にも皇帝に報告しそうな感じだったから一応声をかけた。そのときだった。白龍はゆっくり顔を上げると、空っぽの目でジュダルを見た。まるで鳥の目だ、とジュダルは思い、うすら寒いものを感じて立ち止まった。鳥の目だと思ったのはそう間違いではなかっただろう。白龍はううう、と唸り、けもののようなしなやかな動きで飛びかかってきた。
 身の危険を感じた、というほどではなかったが、思わずボルグを発動して白龍の「攻撃」を防いだ。従者たちは腰を抜かして地面に座り込んでいる。役に立たねー奴らだな、とつぶやき、ボルグの外殻にしつこく爪を立てる白龍をまっすぐに見る。表情はまったくない。野生動物のような目だった。
「おい、白龍」
 何が起こっているのかは明白だ。白龍は奇病に感染した。これまで白龍の宮に感染者は出ていないのだから、感染したのはジュダルが連れ出したせいだと言われるのは分かりきっていた。空の上をちょっと散歩しただけでうつるわけあるかよ、と抗弁しても聞き入れられないだろう。面倒くさいことになる。首をかしげ、ジュダルはもう一度白龍の無表情を見つめ直した。宮仕えの身というのは不自由なものだ。神官になんかならなければよかった。
「あんま暴れんなよ」
 ボルグを解き、絨毯を呼び寄せ、無理やり白龍を絨毯に乗せる。おびえる従者たちが「神官殿、皇子殿下をどこに連れていかれる」と悲痛に叫んでいたが聞こえないふりをした。絨毯は高く舞い上がり、あっという間に禁城をはるか下に見下ろす位置まで来た。白龍は野生動物らしく、寄る辺のない高さにおびえて縮こまっていた。こういうところはいつもの白龍とあまり変わらない。
「ちょっと飛ばすぜ。落ちんなよ」
 ジュダルはさっきと同じように白龍の首根っこをつかみ、最大限の速さで絨毯を発進させる。別にどこへ行こうと言うのではない。色々な面倒くささから逃げるだけだ。皇子が病にかかったのはお前のせいだと怒られたり、皇族との関わり方を考えろと組織に説教されたり、俺は皇子でありながら結局何もできず醜態を晒しただけだったなんて情けない……などと言われて白龍に泣かれたり(なぜか)責められたりされる面倒くささから。当の白龍を連れてきたのは、自分でも不思議と思うほかない。半日経てば病が消えるのだからそれまで姿を隠させるのはさして悪い案ではないようにも思えた。
 考えるのが面倒くさくなってふと白龍の方を見ると、奇病のせいなのかどうかは知らないがおかしなことをやっていた。ジュダルの金色の腕輪を子犬のように口に含んで遊んでいる。やめろよ気持ちわりい、と口に出して抗議したが、白龍は何しろ奇病にかかっているので聞こえていない。ジュダルは襟首をつかむのをやめ、唾液まみれになった上腕をうえええ、という感じの顔で眺めた。だがこれで済んでいるだけましなのだろう。城下で見た病人たちはこんなおとなしいものではなかった。理性を失っているはいっても高等生物特有の残酷さと狡猾さを残しており、まるで意味のないリンチや暴力を同じ人間に働いていたりなどしていた。それに比べればかわいいものだ。白龍は絨毯の上、などという不安定な場所でジュダルにしなだれかかり、標的を耳や髪や首に移した。気持ちが悪くてぞわぞわする。小動物に懐かれた経験はないジュダルだが、なんとなくそういうものを思い起こさせる。ついに耐え切れなくなって絨毯を地面に下ろすと、白龍は捨てられた飼い犬のような目で茫漠たる荒野を眺めていた。
 ここがどこなのか、ジュダルにだって分からない。何しろ適当に飛んできただけなのだ。街らしき影もないし、当然ながら人もいない。少し先に大きな川があるのが見えるほかは、単に荒野としか表現しようのない場所だった。川があるなら岸に沿っていけばどこかに津があるはずで、津があるなら民家もあるはずだ。などということをジュダルに思いつけるはずもなく、ただひたすら絨毯をひざくらいの高さに浮かべて寝そべっていた。途方に暮れていたともいう。白龍はしばらく呆然と荒野を見ていたが、そのうち順応したのか四つんばいになって駆け出していった。
 待てよ、と言ってみたが聞くわけがない。ジュダルは仕方なく絨毯を飛ばして白龍を追いかけた。第四皇子である白龍を行方不明にさせたら面倒なことになるし、この国にいづらくなる。迷宮にいざなって強い奴にしてやることもできなくなるのだ。加速してやっと追いついた白龍を掬い上げるようにして抱え、ジュダルは「落ち着けよ」と言った。
「お前なー、迷子になったらどうすんだよ。こんなとこじゃ白瑛だって助けに来ちゃくれねーぞ」
 何に興奮しているのか、押さえつけられてもなお白龍は手足をばたばたさせて顔を荒野の方へ向けていた。野生動物だけに野生に帰りたいのかもしれない。街で乱暴狼藉を働いている病人たちもこういうところに連れてくればおとなしくなるのかもしれない。
 知られたら後で面倒なことになるのを承知で、ジュダルは白龍の胴に長めの紐をくくりつけた。これなら見失うこともないだろう。どこか犬の散歩じみているがジュダルとしては別に気にならない。白龍をふたたび野に放し、好きなように駆け回らせる。獣化した白龍に走って追いつけるはずがないのでジュダルは絨毯に乗っている。しかし二時間ほどすると疲れたらしく、はあはあと息をついて立ち止まった。やっと飽きたか、という気持ちだ。自分は十分くらいですでに飽きていたから紐なんかとっとと放り捨てたかったがジュダルなりに色々考えて我慢を重ねていた。
 白龍は野にうずくまったまま、視線だけを周囲にきょろきょろと動かしている。何かを探しているらしかったが見当もつかない。ジュダルは首をかしげ、絨毯から身を乗り出すように白龍の汚れた顔を覗き見た。白龍は一瞬不思議そうな表情でジュダルを見つめ返していたが、やがてまるで躊躇もなく絨毯の上にのし上がってきて、ジュダルの体に覆いかぶさってきた。
 なんなんだよ、と問うひまもなかった。白龍は泥だらけの手でジュダルの顎を押さえ、口を開けさせ、自分の口をつけ、思い切り唾液をすすった。気持ち悪かったが、ジュダルはなんとなく納得した。走り回ったから喉が渇いていたのだろう。さっきは水溜りを探していたに違いない。しかしまるきり容赦のないやり方だったから苦しくなってくる。ジュダルは白龍の体を押し返そうとしてもがいた。力ではかないそうにないから浮遊魔法を使って何とか体を離そうとしたが、上手くいかなかった。白龍はさんざんに動き回って抵抗するジュダルの腕を押さえつけ、下半身を密着させて組み敷くような形になった。
 この期に及んで、なんとなく嫌な予感がし始める。病人たちは人間としての理性のたがが外れたせいなのか、好色なものがよくいるのだ。男女問わず公衆の面前でことに及んでしまい病が癒えたときに大変な事態になるらしい。ジュダルはしょせん他人事なのでそれをただ笑っていたがまさか自分がそんな目に遭うとは思わなかった。やべえ、とつぶやく。もう少し早く気付けばよかった。雷魔法で白龍を焦がせばいけにえになる運命から逃れられるが、うっかりすると殺してしまうかもしれない。だが考えれば考えるほど考えることが面倒くさくなり、ここに白瑛がいりゃ万事解決すんのになーと他人事のように思うくらいには事態を投げ始めているジュダルだ。
 気まぐれで軽く白龍の唇を吸い返すと、んん、と声が漏れ、腕の力が弱まった。繰り返せば逃げられるかもしれない。音を立てて唇の端に吸いつき、どんどん位置をずらしていく。白龍は唾液を吸って渇きを癒す、という目的を忘れたようにそれに夢中になった。互いに唇を吸いあい、深みにはまっていく。ジュダルは自由になった腕を首に回し、犬のようにふんふんと鼻を鳴らす白龍の頭を固定した。男女の交接など見飽きるほど見ているから知識としては当然知っていたが「口付け」という行為が、自分たちが今どこにいるのか、どういう状況に置かれているのか、何をしていたところなのか、すべてを忘れてしまいそうになるほどのものだとは思わなかった。白龍もジュダルも猫のようにうっとりと目を閉じ、べたべたして生温かい粘膜の感触を味わっている。白龍の肌からはいつもの香と嗅ぎ慣れぬ異郷の土埃の匂いがした。顔も手も足も赤土の泥で汚れているからジュダルの体もどんどん赤茶けて汚れていく。唾液から泥の味がする。この状況ともあいまって、まさに蛮というよりほかなかった。まともな人間なら忌避するたぐいの野蛮さだ。
 だが手をほうぼうに伸ばして自分に覆いかぶさっている白龍の服を脱がしていき、やり方がよく分からないながらもどうにか交わろうとして腰を浮かせようとすると、いきなり糸が切れたように体が倒れてきた。
「な、なんだよ?」
 死んだんじゃないか、とちらりと思った。だが呼吸音ははっきり聞こえるほどだし、鼓動も伝わってくる。
「白龍、おい、どうしたんだよ」
 とはいえどうしたんだと問うまでもない。白龍は眠っているのだ。上半身はまくれ上がり、下半身もひざまでむき出しになっているという恐ろしく間抜けな姿のまま、白龍は泥のように眠りこけていた。魔法をかけられて眠っているようにも見えたが、多分疲れているだけだろう。ジュダルは呆れ果ててため息をついた。まだ半日経ってはいないが、目覚めたらタイムリミットがくる。そうしたら元の白龍に戻るのだろう。あー説明するのめんどくせえ、と声に出してつぶやき、白龍の体を押しのけてうつぶせに寝かせ、少し乱れていた自分の服を直した。口内がじゃりじゃりする。口だけでなくきつく結っている髪も顔も目の中も首輪と首の間も服も体も手足も全部だ。
 帰ったら風呂だな、とふたたびつぶやいて絨毯をふわりと空に浮かべる。短い逃避行だった。だがやはりジュダルが帰るべき場所はあそこしかないのだ。辛気くさくても、面倒くさくても、何もかもイヤになっても、帰ろうと思えるところはあの都しかなかった。
 とりあえず、今のところは。


 数ヶ月猛威を奮った例の奇病はようやく流行を過ぎて収まりつつあった。とはいえ自然と収まったわけではない。紅明が身内の金属器使いと帝国正規軍の感染者をつぶさに調べた結果、感染を防ぐ方法を発見したのだ。すなわち「頑健であること」。確かに迷宮攻略者たちは誰よりも頑健だ。皇族であるから栄養状態もいいし、丈夫で体力がある。そうまではならなくともとりあえず国民の栄養状態を向上させようと、官吏たちは国有の穀物倉を開けて人民に分け与えた。すると、みるみる感染者が少なくなった。その報告を聞いた皇帝は「なんという簡単な対処法だ」とつまらなそうに言ったらしい。ジュダルも皇帝と同様、なんだよつまんねーの、と思いはしたが妨害する気はさらさらなかった。ジュダルとて奇病のせいでひどい目に遭ったからだ。
 あの日、禁城にたどり着いても目を覚まさない白龍をそのまま庭に打ち捨て、ジュダルはまっすぐ風呂に向かった。すでに夜だった。沐髪を手伝わせた組織の人間がジュダルの体に付着している赤い埃を見て何かとしつこく質問してきたが無視した。説明するのが面倒だからだ。夜中に庭で目覚めたらしい白龍が完全に狂乱して神官殿がどうとか言って泣き叫んでいたらしいことは後日誰かから聞いたが、ジュダルはそれに関しても別に何も言わないでいた。下手に首を突っ込むとまた爆発に巻き込まれる。
 しかしジュダルはその後、仕返しというわけではないが喉が渇いたときにはわざわざ白龍のところに行って口を吸ってやることにした。そのたびにいちいち半狂乱になるのがうっとうしい。何しろ火薬庫だ。なんだよ、お前がやったくせに、と耳元でささやいてやると脱兎のごとく逃げ出すし、それどころか宮中でもジュダルの顔を見るだけで真っ赤になってぶるぶる震えるのが可笑しくて可笑しくてたまらない。
「お前よお、全部覚えてんだろお、あのときのこと」
 白龍は真っ赤な顔で不機嫌そうに唇を拭い、ジュダルから目をそらした。
「覚えてなどいません。犬のように野原を駆け回っていたときのことなど」
「覚えてんじゃねーかよお、やっぱり」
 ジュダルはひひひ、と笑って白龍の額をはたく。白龍は口元を手で隠したまま肩を震わせ、よろよろに何歩か後ろに下がった。
「なあ白龍、逃げんなよ」
「離してください! 覚えてなどいない! 神官殿もさっさと忘れてください!」
「なんだよう、自分のせいだろ」
 うう、と白龍は唸り、泣き出す一歩手前のような顔になった。そのまま泣いたら面倒だから絨毯で逃げ帰るつもりだったが珍しく何とか持ちこたえたらしい。ジュダルはふーん、と感心したようにつぶやき、白龍の顔を覗き見た。
「あなたのせいではないですか! あなたが連れ出すからあんなことに」
「ああ? そうだっけ?」
 ジュダルは頭をかき、首をかしげる。あの後結局白龍の宮には感染者が出なかったから、確かにジュダルのせいと言えなくもない。
「そうですよ、神官殿のせいです」
「わーかったよ! うるせーな」
 おとなしく引き下がったことに驚いたのか、白龍は不思議そうな顔をした。
「否定されないのですか」
「だってよお、めんどくせーんだもんお前と話すんの」
 練家の兄弟の中ではこいつが一番面倒くさい。というか世界で一番か二番くらいには面倒くさい。それを素直に告げると、白龍は恥ずかしそうな顔をして黙った。
「そんじゃな。白龍、元気になったんなら今度一緒に迷宮に行こうぜ。お前のこと、結構買ってんだぜ」
 ジュダルとしてはそれこそが本懐なのであり、内面はどうでもいいが外側だけは強くなってもらわなければ困る。
 背を向けて呼び寄せてあった絨毯に片足をかけたとき、白龍が「神官殿」と抑えた声で呼びかけてきた。何気なく首だけで振り返ると、体を額を思い切りぶつけられ、絨毯の上に押し倒された。白龍は今にも死にそうな顔で、思い切り眉根を寄せ、苦しげに口を開いていた。
「あなたはやっぱり嘘つきだ。絶対に信用できない」
 唇に柔らかで熱い感触が伝わってくる。赤い土と埃の匂いが蘇ってくる。しかしそれは一瞬で、白龍はさっと体をどけ、よろめいてあちこちに肩とひざをぶつけながら部屋の外へ走り去っていった。ジュダルは唇に残る土の香りを不思議に感じながら、首をひねる。思い切り甘えられながら拒絶された感じだった。めんどくせー奴、とジュダルはつぶやく。白龍はジュダルを見るたびにああはなりたくないと思うのだろう。白龍の目には野蛮で悪辣で、自分をどうしようもなく堕落させるものに映るのだろう。だがジュダルは絨毯と自分の体のそこかしこから、蛮の匂いを感じてなぜかにやりと笑っていた。それはイコール嘘であり、イコール秘密だ。二人だけの秘密。事実その後もずっと、誰にも知られたくないと願うほどの秘密の匂いが、白龍の顔やしぐさに消えることなく漂っていた。

2012.09.04
back