無理に組み敷こうとして爪を引っ掛け、足の甲に浅くちいさな傷をつけた。血が流れたというのにジュダルはいつもと同じく痛いとも何とも言わなかったし、その傷を顧みることもしなかった。白龍も、痛くないのか、と聞くこともしなかった。しかしジュダルははだしで歩くから、その傷は誰の目からも隠されず太陽の光にも月明かりにもはっきりと浮かび上がり、白龍の視線を奪い続けていた。見てはいけない、と思うのに見てしまう。あれはおれとは何の関係もないものだ、と思い込もうとして失敗する。それを見るたびにまざまざと思い出し、気分が悪くなり、自分を照らす光を痛く感じる。ジュダルはそんな視線には気付いていないらしく、何ともなさそうに話しかけてくる。そのたびに腹の底から怒りのような、苦しみのような、悲しみのような冷たさと熱さが沸いてくる。何もかも見透かされているかのようで、消えてしまいたくなる。
 嫌じゃないのか、と聞いたことは何度もある。しかしジュダルは呆れたようにはぐらかすだけで答えない。嫌に決まっているだろう、と強い口調で責めるとため息をつかれる。返答を待っているうちにこらえきれなくなって泣くと、興味深そうに覗き込んでくる。なんだよ、泣くなよお、と言って唇で涙を吸い取り、うえ、と笑う。その笑顔はあまりに子どもっぽく、何かを思っているふうもなく、何の感慨もなかった。
 ほら、泣かないの、わたしのかわいい白龍。
 しかし涙を流すたびに頭に響いてくるその声のせいでジュダルのその笑顔すら薄っぺらい媚態に思え、いとおしさと懐かしさは凶暴な衝動にかき消される。体の下にいるときのジュダルは、いつも涙の膜でゆがんで見えた。涙がぼとぼととこぼれ落ち、やがてそれも掻き消え、喉を詰まらせる激情だけが残った。自分が恐ろしく、おぞましく、忌まわしく思えるほどだ。しかしジュダルは何をされても嫌がらなかった。おまえを王に選んだのは間違いだったと一度でも言ってくれればそれで白龍は救われたのかもしれなかった。しかし、白龍がどんなに請うてもその言葉を言ってくれはしなかった。
「お前よお、毎回泣くなよ」
 ジュダルは器用にナイフで足の爪を切りながら夜具に突っ伏している白龍にそう言った。
「めんどくせーなー、泣くくらいならやんなよな」
「お前のせいじゃないか」
 しかしその声は綿にこもって聞こえなかったらしく、ジュダルは何も言わなかった。顔を上げて言い返してやれば済むのだがそうはしなかった。ジュダルが裸だからだ。ひんやりとして筋張った体が目の前にある。ジュダルはことが終わってもなかなか服を着ようとせず、放っておいたら裸のままで寝ようとする。
「服を着てくください、神官殿。話はそれからです」
「はあ? 『神官殿』お? 『それからです』う?」
「う、うるさい! いいからもう、何でもいいから服を着てくれ!」
「なんだよ、ほんとお前ってめんどくせーな」
 ナイフを放り出し、ジュダルは突っ伏している白龍の背中に思い切り覆いかぶさってきた。ぎゃあああ、と悲鳴をあげそうになってなんとかこらえる。
「ふとん」
 耳元でくすりと笑い、全身をくっつけてくる。しかしあんな行為の後だというのにジュダルの体は冷たく乾いていて、白龍からひたすら体温を吸い取って平然としていた。
「白龍、どうしたんだよ。ほら、」
 笑い混じりの声が聞こえたとき、白龍は思い切って体の向きを変えた。その反動でジュダルは跳ね飛ばされたようになり、横向きに寝台に倒れこむ。ジュダルの方へ視線を向けると、視界の端にきらりと光るものが見えた。
「ってえな、なにすんだよ」
 ゆっくりと手を伸ばしてそれを取り上げる。短いナイフだ。硬質に光り、柄に見たことのない飾りがついていて、刀身が湾曲している。煌帝国のものではなくどこか異国で作られたナイフだ。白龍はそのぎらつく銀色を見つめながらしばらく動けなかった。どくん、と腹の底が脈動する。そのナイフであたたかな世界を刺し殺すところを、まだ決してなしえないことを脳裏に描く。返り血の生温かさと鉄のような臭気までまざまざと感じる。
「お前も切るか、爪」
 しかし明らかに異常な白龍の様子を見てもジュダルは恐れをなすこともなく、けたけたと笑いながらそう言った。
「切ってやろうか。俺うまいんだぜ?」
 硬直して震えている白龍の手からさっさとナイフを奪い取り、ジュダルは脚を伸ばさせて足の親指をつまむ。
「やめてくれ」
 やっとの思いでそう言い足を引っ込めようとしたが、ジュダルはいきなり手に力をこめてそれを阻んだ。
「なんでそんなことするんだ」
「なんでもなにも、爪切るだけじゃねーか」
「伸びてないし、お前に切ってもらう理由もない!」
 膝を曲げて無理やりジュダルの手から逃れようとしたら、ナイフの切っ先が足の甲に触れた。痛い、というよりは熱いという感じだった。熱くて、その次に冷たくて、生ぬるかった。血が流れて夜具に転々と赤く染まった。それを見たとき「あ」とジュダルはつぶやき、放心したように手の力を抜いた。
 謝ってくれるなよ、と白龍は思った。ジュダルに限ってそんなことするわけないのにそう思った。
「ジュダル」
 読めない表情で足の甲を見ていたジュダルは、目線を少し上げて白龍を見た。
「お前の手を取ったのは間違いだったと思う。お前も、俺に手を伸ばしたのは間違いだった。あれから俺はそのことしか考えられなくなった。何を見ても、何を聞いても、何を触っても、心が直接それに繋がっているみたいだ」
 かつての自分はこうではなかった。弱さは変わらないのに、白龍の目にはひとつのものしか映らなくなった。ジュダルがそれしか見せないからだ。一緒に世界を殺そう。おれたちをこんなにした世界を、その槍でめった刺しにしてやろう。槍を握る、震える手に添えられたジュダルの手の冷たさと力強さを感じる。黒く染まった世界の中に、ジュダルの赤い目だけが輝いている。その光だけが白龍を照らしている。
「ふーん? 後悔してんのか」
「毎日してる」
「もうやめたいか? 別にいいんだぜ、やめても」
「……」
 黙り込んだ白龍の足に、あたたかで冷たいものが触れた。思わず視線を下げると、ジュダルがかがみ込んでいた。血を流し続けてる足の甲に、やわらかな唇が押し当てられていた。
「嫌だ!」
 反射的にジュダルを突き飛ばし、体を離す。腕に鳥肌が立ち、白龍は自分でも気付かぬうちにがちがちと歯を鳴らしていた。不機嫌そうに口を尖らせるジュダルの唇は白龍の血で真っ赤に染まっている。
「んだよお、悪いと思ってやってんのに」
「そういうことをするな! そんなことされたら、」
 離れられなくなる。頬にこぼれた涙が熱かった。ジュダルは首をかしげて白龍の泣き顔を覗き込み、ふん、と笑った。
「泣くなよ。白龍、お前は俺が見込んだ王なんだぜ」
「嘘だ。操りやすいから俺を選んだんだろう。そんなの分かってる」
「白龍」
 両手でぎゅっと頬を挟まれた。
「お前は強い。お前は、誰にも負けねえ王になる。あのシンドバッドにだってな」
 間近で見るジュダルの顔は自信に満ち、その赤い目には一片の暗さもなかった。この手を取った日のことを思い出す。白龍はジュダルにすがりつくようにしてこうなった。ジュダルは力をくれる。誰もくれなかったし自分で信じられもしなかった、すべてのものをくれる。一緒に槍を握ってくれる。白龍は冷たい体を掻き抱き、結果としてまた泣いた。
「泣くなって、ったくしつけーなー」
 ううう、と子どものように嗚咽をもらし、首すじに顔を埋める。涙がジュダルの肩を濡らしていく。ジュダルは笑いもせず、黙ってされるがままになっている。やがて泣きつくした白龍が顔を上げると、満面の笑みを浮かべて互いの足の甲を並べた。
「見ろよ白龍」
 足の甲と足の甲、血と血、傷と傷。二つずつのそれは、まるであつらえたように同じだった。
「しるし、みたいだ」
 白龍がそう言うとジュダルは得意そうに笑い、猫のように体を擦り寄せてきた。
「へへ、そうだろ。俺たちしか知らない」
 二人して同時に笑う。けれど白龍はすぐに笑いをおさめてジュダルの裸の体を抱き寄せ、乱暴に押し倒した。相変わらずにやにやとゆるんでいる口元に吸い付くように口付ける。うえ、しょっぱい、とジュダルが笑う。そのせいで、頭の中に響き続ける「泣かないの」というやさしげな声が黒くかき消されていく。悲しいとも思うし、清々したとも思う。白龍は体をずらしてジュダルの足の甲に口付け、傷口に歯を立てた。ジュダルが本能的に身をすくめたことに怒りを感じ、ますます強く傷をえぐっていく。しかし痛いとも何とも言わないジュダルは、そっと体を起こして白龍の頭を撫でた。ジュダルの手は死人のように冷たかった。この手のぞっとするほどの冷たさを感じるたびに、おれはこんな手を取ったのか、と恐ろしく思う。もっと力をこめようとして足に力を入れると傷がずきりと痛み、ジュダルの弾むような笑い声を思い出させる。そうだろ、おれたちしか知らない。
「そうだ、共犯だ」
 白龍は真面目な顔でそう言い、自分とジュダルの足の甲をぴったりとくっつける。ふたりだけのしるしだ。おれたちしか知らない。誰も触れられないし、誰もここには入ってこられない。ジュダルは自分の上にある白龍の頬を、やけどの跡を、撫でるでもなく冷たい手のひらで包む。胸の奥がぞわぞわと満たされていく。そのとき、ひとつの言葉が頭に浮かんだ。白龍はそれを口に出さずにつぶやいた。さようなら。
 姉にではない。誰に言うでもない、別れの言葉だ。さようなら。傷口を照らす太陽の光に、月の光に、さようなら。ジュダルの手はまだ頬に触れている。手は冷たく、貪欲に体温を奪い取り、熱くもあたたかくなることもなく平然としている。白龍は手を押しのけ、自分の血がこびりついている唇にふたたび口付けた。

2012.08.26
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